夏の熊野で九郎と弁慶と望美で酒の飲み交わし。暗め?
「駄目ですか?」
暑い夏の、熊野の夜。
聖域の山を戴く熊野の夜に凪ぐ風は、清冽な樹々を擦り抜け、涼やかに生きとし生けるものを撫ぜ癒す。
宿の縁に出た望美は、その風向きにそっと感謝しながら自然の恩恵を受ける。
その風に乗ってふわりと元の世界では未成年だから、と遠ざけられていた芳りが鼻をついた。
「弁慶さんと九郎さん…ですか?」
寝静まり只でさえ光が少ないこの世界の夜は本当に闇夜で、余り目が利かず思わず疑問形になった。
微かな月明りに反射する弁慶の髪と、それより更に鈍く月光を受ける九郎の髪を見つけた。
「おや望美さん。こんばんは」
「どうした?眠れないのか?」
その寛いだ声に警戒を解き望美は二人に近付いた。
「暑くって眠れなくて。……二人はお酒、ですか?」
「ええ。九郎は嘗める程度ですけど」
「なっ!バカ程呑んで潰れても仕方が無いだろうっ」
酒には弱いらしく、既に酔って感情の起伏が常より激しくなっている九郎を酔わない弁慶が適当にやり過ごしている。
「わかっていますよ。
僕は月が余りに美しいので酒が進むだけですよ」
くすりと微笑して月虹を放つ月を見上げながら、銚子に触れようとした弁慶の指先は在るべきものに触れず空に触れただけだった。
訝しがって銚子があった場所を見ると白く細い指先が添えられた銚子。
その先を見ると紫苑の髪をさらりと肩から泳がせた望美が薄く笑みを口許に佩いていた。
「お酌くらいあたしがしますよ。
お酒は呑めませんけど、それくらい混ぜてください」
まるで遊びに入れて欲しいように言う望美の声音。
だが仕種は月光を受けながら、片手で持った銚子に角度を付けそれに指先を添えて微笑んでいる。
あどけない声音と婀娜っぽい仕種の差異が妙に心をくすぐられる。
だがそれをおくびにも出さず、弁慶はいつもの笑顔で杯を差し出した。
「畏れ入ります」
気配だけで笑うと望美は少し平たい、僅かな金粉だけで彩った漆黒のその漆器に透明の液体を注いだ。
「九郎さんは如何ですか?」
「いや、おれはもう良い。あとは月を楽しめれば充分だ」
それまで見上げていた月から目を逸らし望美を見て言った。
やんわりと断ったあとはカタンと杯を逆さに向け月から降り注ぐその柔らかな光を楽しむことに専念した。
「ほんと……綺麗、ですね……」
白い白い月。
余りの白さにいっそ眩しいようにも映る。
まともに月を見上げたのなんて、いつ振りだろう。
いつもなんだか追い詰められ切羽詰まった気分で、余裕が無くて。
そしてお嫁に行くところがあれば良いわね、なんて笑いながらも実のところ誰よりも家が近い有川家の兄弟どちらかと結婚して欲しいと垣間見せていた母は、どうしているのだろうか。
そう思って、俯いて泣いて。
誰にも弱いところを知られたくなくて膝や枕に瞼を押しつけて、声を押し殺して泣いて。
そうしてばかりだった。
漸く見つけた幸せも恋も、一度終わった。
否自分の恋なんて問題ではなくて。
ただ。
ただ生きてて欲しかった。
自分ではない誰かを選んでも良いから、心から笑って、大切なものを沢山抱えて、生きて欲しいだけ。
自責の中、苦しんで跡形もなく消えるだなんてものは、骸があるよりも残酷だ。
全てが信じられない。
彼は本当は死んでないのではないか。
死はまやかしで、策略は幻で、息絶え絶えに紡いだ愛の言の葉は幻想。
否、本当は。
『武蔵坊弁慶』という男はいなかったという、錯覚。
「―――――ぁ」
酷い寂漠に思わずか細い悲鳴をあげそうになった望美を止めたのは肩の重み。
自分の世界に入り切っていた望美はびくんと肩を震わせ目を見開いた。
その細い肩に突如預けられたのは九郎の頭。
酒が回り月を見上げ熟考しているうちに眠ってしまったのだろう。
明るい色の髪に遮られたそのかんばせは眠っているといっそあどけなくも映るが、将としての重責は決して軽くはない。
逞しくはあるがたった一人のこの肩には幾百もの兵士の命とその数を上回る、兵の家族の生活と命がかかっている。
全ては九郎の采配ひとつ。
疲れて、いたのだろう。
「九郎はこうでもしないと眠りが酷く浅いのですよ」
言いながら弁慶は杯に残っていた酒を映った月ごと全て飲み干した。
幾ら覗いても深い飴色の瞳には猜疑心を煽るどころか安心感すら与える。
このひとは自分よりも周りを見てしまう。
そういうひとだから好きになったのだけれど、寂しい。
あんな決意を、もう抱えているのだろうか。
それを暴くことは、出来ないけれど。
「弁慶さんも、辛いんじゃないんですか?」
「……っ」
小さく息を飲んだ気がするのは、自分が全て知っているからだろうか。
「あたしは、弁慶さんの味方ですから。
疲れているのは弁慶さんもでしょう?」
長い指先から杯を取り上げ、床に置いた。
「肩で良ければどーぞ」
ふわりと望美が笑いかけると、常より柔和に笑みを作った弁慶は長い髪を束ねていた結紐を解いた。
広がる長い髪に見とれていると望美に新たに重みがかかった。
肩ではなく、脚に。
「べ…弁慶さんっ?!」
寝転び望美の膝に頭を置いた弁慶が自分の口許に人差し指を当てた。
「九郎が起きますよ」
酒が入って寝入った人間がそう簡単に目を醒まさないことは知っていたが、人差し指を当てられた唇が熱を孕んでそちらばかりに意識が向いてしまう。
「駄目ですか?」
「…ぇ………」
「膝枕。駄目なら降りますけれ、」
「だっ駄目っ」
思わず大きい声を出してしまった口を慌てて望美は塞いだ。
駄目と言ってしまったのは「駄目じゃない」と言いたかったのではない。
膝から降りてしまう事を「駄目」と、言ってしまった。
知ってか知らずか、少し驚いた弁慶がすぐに目許を緩ませ笑った。
「わかりました」
何か会話を探そうと逡巡していた弁慶の瞳が次第にまどろんだように伏せがちになった。
「弁慶さん、別に寝ても――――……」
言いかけた望美の頬骨あたりに触れた。
「泣かないでください。
貴女は、笑っていると本当に可愛らしいのだから」
胸が痛い。
笑顔の儚さに前の時空で救えなかった弁慶の姿が重なって息苦しい。
だけれど触れた指先に、恋心は甘く痛む。
「弁慶さんが頼ってくれたから、泣きませんよ」
弁慶の笑みが深くなり、今度は掌で頬を包まれた。
弁慶の瞳の色に先ほど煽った月を想う。
これほど近くから、全て見ていられたらと月を羨みながら。
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