風邪引き香穂子。
「……だから、帰れと言ったんだ」
「こ………んの馬鹿!」
「ば…っ馬鹿って言うほうが馬鹿なんですよぅ」
「……頭悪いのかお前っ」
「……回ってないだけですー」
非難轟々。
呆れを顔の大半に滲ませながら、人気の少ない屋上の手前の階段で、香穂子に「馬鹿」と言った。
柚木が今、眼前の彼女に占める感情はそれが七割ほど。
はぁぁ、と長い溜息をあからさまに吐いた。
理由は、香穂子の赤い顔。
「………ごめんなさい…」
「謝るな」
ぴしゃりといわれ、香穂子は回らない頭でどうしたものかと考えたが、普段でさえ『正解』に至る事が少ないのだから仕方無い。
「風邪なら、素直に休め」
香穂子は、比較的過ごし易いこ季節にそぐわない風邪を引いた。
「だっ、大丈夫ですよ!微熱ですし!」
「へぇ?なら微熱で階段を頭から落ちかける馬鹿は何処にいるんだ?」
香穂子は、柚木に最初に「馬鹿」と言われる一分ほど前に登りきった階段の上でくらりと眩暈を感じて、そのまま体が後ろ向きに傾いだ。
とっさに柚木が腰に手を回したお陰でそのまま落下、と言う事にはならなかった。
因みに、その一分の間に香穂子が黙秘権を行使し、柚木が香穂子の黙秘権を剥奪した。
もう一度溜息を思い切り吐いて、代わりに言いたい文句を呑み込む。
「行くぞ。うちの車で送らせるから」
香穂子は携帯を取り出しかけた柚木の手を慌てて掴んで抗議した。
「いっ嫌です!」
「拒否権あると思ってるの?」
拒否権まで奪われてるんだ、私。
応と言えず、ましてや真っ白な笑顔で真っ黒なオーラを出しながら言う柚木に率直に言える訳も無く、俯いている香穂子の目の前に手が差し出された。
「保健室か帰るしか選択し無いぞ?」
「じゃあ、…保健室に行きます……」
素直に柚木の手を借りて登った階段をゆっくりと降りて保健室へ向かう。
階段を降りきればそこはもう廊下。
流石に人目がある為に何となく手を引っ込めようとした香穂子の手を、それよりも強い力で、柚木の掌の中に留める。
中には親衛隊らしき女子生徒が悲鳴や非難の眼差しを向けるが、柚木は素知らぬ振りで歩き続ける。
と。
「日野?」
不意にかかった声に日野は赤い顔をきょとんとして、柚木は思わず舌打ちせんばかりの顔になったそれを、一瞬のうちに笑顔へと変える。
「やぁ土浦くん」
「どーも。……どっか行くのか?」
視線を香穂子に摩り替えて土浦は尋ねた。
柚木の面白く無さを熱の為か生来の鈍さの為か気づく事無く、香穂子はそのまま話す。
「あたし風邪引いて……これから保健し…きゃっ」
「日野?!」
ぐらり、と今度こそ傾いだ体を支えようと土浦は逞しい腕を広げるが、香穂子の体は、
香穂子の髪が土浦の腕に当たるか当たらないかで止まる。
香穂子の肩を掴んで、柚木が支えていた。
にっこり、と最上ランクの笑顔を土浦に向け、香穂子の視線まで腰を折る。
「相当熱、高いみたいだね。歩くの、辛くない?」
「あ、大丈―――――――」
「そう、やっぱり辛そうだね。ごめんね、気づかなくて」
土浦の手前下手に何かを言う事が出来ず、香穂子は反応に窮した。
「……おれが連れて行きましょうか」
香穂子が歩く事が覚束ない事を言ったのは、ただ「気遣い」を見せる訳でも、土浦との会話に詰まった為でもない。
後者なら後者で、柚木は一向に気にしない。
理由は土浦に、一抹の期待を抱かせる為。
土浦が柚木に抱いている印象は、柚木本人も良く知っている。
だから、この申し出は土浦の想いも性格も知った上で柚木が噴出したもの。
香穂子を影にしている為、香穂子にしか見えないが、笑顔で上がった柚木の口角が、また別の形に上がる。
ぞくり、と香穂子の背筋を駆け降りたのは風邪からの寒気だけでは無い筈。
それを認めると、柚木は姿勢良く立った。
香穂子を見つめるように甘く視線を送りゆっくりと肩を抱いた。
「柚木先輩?……ってちょっときゃあ!」
柚木の行動の意図が図れず、尋ねようとした瞬間、肩に手を添えたまま柚木が屈んだかと思った瞬間、膝裏を掬い抱き上げた。
女子生徒の悲鳴が聞こえるが、香穂子はそれどころではない。
体調不良の怠さも、意識から本当に飛んだ。
「ゆゆゆゆのきせんぱいっ?!」
呂律が回らず、叫ぶ香穂子を無視して、土浦にさっきよりも深い笑みを向けた。
「ごめんね、土浦くん。僕の彼女だから」
抵抗する気力が無い、と言うよりも抵抗した後の方が怖い事を知っている香穂子はただ為されるがまま。
熱の分よりも、随分熱い体をそのまま柚木に預ける。
呆気に取られている土浦は、じゃあ、と言って香穂子を抱えたまま歩き出す柚木の笑顔を只の愛想と勘違いしたまま、教室へと戻った。
「………だから、帰れと言ったんだ」
保健室に入った途端、「会議があるから、勝手に使って」と言いながら保健医が出て行った為に今は香穂子と柚木の二人きり。
「すみません……」
全く、と言いながら香穂子の頬をさらりと撫ぜた。
「つめた……」
「お前が熱い」
じ、と柚木をベッドの上から見上げる香穂子の視線に気付く。
「どうした?」
柚木の問いには答えず、柚木の手を取って、香穂子は自らの額に乗せた。
「気持ちいー……。…駄目ですか?」
手の冷たさと、柚木の匂いが心地よく、安堵が降りるように肩の力を抜く。
「好きにしたら?」
ベッドに横たわり、シーツに髪を散らばせて熱の所為で潤む瞳を向けて言う香穂子の可愛らしい望みを一蹴する気もその理由も無く、柚木は遠まわしの返事をした。
口調とは裏腹に、優しい眼差しが香穂子にはただ嬉しくて、そのまま眠りに落ちるべく瞳を閉じた。
眠りの淵に落ちる瞬間、香穂子は柚木にそっと心の中だけで呟く。
ごめんなさい、と。
母親の反対すら押し切って、怠さと吐き気を訴える体を騙してまで学校に来たのは、柚木に逢うため。
もし、風邪に気付かれても、柚木なら休み時間の間だけでもこうして隣にいてくれると信じていた。
本当に叶うのだから、愛しくて堪らない。
香穂子は身じろぐように柚木の匂いを思い切り吸い込んで、明るい闇へと、意識を投じた。
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