香穂子が使う呼び名。
「お前がおれを呼ぶのがむかつく」
「柚木先輩」と呼ぶ、あの声が許せなかった。
「それじゃ、昼休みに」
「はいっ」
コンクールを通して知り合って付き合うようになった香穂子と柚木は毎日の登下校はコンクール時と変わらず、それに加えてまだ遠い卒業までの間を惜しむように昼休みと放課後の行動を共にしていた。
屈託無い笑顔でたで「彼氏」として接してくれるのが嬉しくて、だが素直に言える訳無く柚木がウチを開こうとしたとき香穂子が呼ばれた。
「おはよう、香穂子」
「あ、おはよ、月森くん」
にこりと、変わらず屈託無い笑顔を惜しげ無く振りまいて月森に挨拶した。
ふ、と短く嘆息する柚木は車から出た。
「じゃあね香穂子」
「あっ」
何か言いたげな香穂子に気付かない振りして校舎へ向かった。
やたらと苛立つ。
月森が香穂子と呼ぶからではない。
彼が友人以上の好意を寄せているからでもない。
傍目から分かるほどの香穂子への気持ちに香穂子当人が気付かないのだ。
とも出し以上ではない事くらい言葉を聞くよりも明らか。
なのに苛立つ。
原因の分からなさがそれに拍車をかける。
どろどろと澱のように淀んでいるのに、変わらず笑顔で周りに対応している己にもまた、苛立った。
「顔色、悪くないですか?」
昼食を取るために屋上で会った香穂子の第一声と、その返答。
一瞬驚いた顔をしてまじまじと覗き込んだかと思うとそう言った。
「別に」
それに気遣うことなくぴしゃりと返すと何とも言えない思い空気が圧し掛かった。
空気の重さに耐え兼ね、柚木は小さく舌打ちしそうになった。
「先輩、お昼此処じゃなくて練習室で食べましょう!」
まるで柚木の声など聞こえていなかったような底抜けに明るい声。
「人の話は聞け。仮にも恋人だろ。第一練習室は飲食禁止だ」
「換気して柚木先輩が黙ってればわかりません」
柚木の手を掴んで香穂子は引っ張るようにして先へ進む。
引っ張られている柚木は柳眉を顰めながら一瞬ちり、と痛んだ胸を制服ごと掴んだ。
香穂子には見えないけれど。
ふと気付いたときにはパタンと練習室の扉が閉まったあとだった。
「別に昼食なんて何処でも良いだろ」
呆れたように言う柚木に香穂子は悪戯っぽく笑った。
「そんなことないですよ、きっと見られたら親衛隊の人たちからまた呼び出されます」
「昼食なら、」
みんな知ってると返そうとしたその科白は半分も言わないうちに喉の奥へ戻った。
首に纏わり付くように抱き疲れているのに、力加減や気配が抱きしめられている安心感を与える。
「………香穂子」
柚木は細く息を吐いて丁度当たる香穂子の胸元に頭を預けた。
「今日半日子供みたいですから」
くすくすと笑いながら少し香穂子は腕に力を込めた。
「むかつく」
「は?」
腕を離そうとした香穂子の胸元に頭をこすり付けて離すなと意思表示をした。
「お前がおれを呼ぶのがむかつく」
「何ですかそれ…」
「『柚木先輩』なんて呼ぶな」
自分でもおかしいと思う。
他の男を呼ぶなならまだしも、他の男を呼ぶよりも、自分を呼ぶ声に苛立つのだから。
「………ふふっ」
少し黙った香穂子が暫くして楽しげに笑った。
「何がおかしいんだ」
いつもなら怖気づく声音すら楽しそうに聞く。
「分からないんですよね?何で苛つくか」
「…………」
素直に肯定を返すのは癪に障る。
だから、肯定の代わりに背中を抱いて顔を胸元へ下ろす。
「わわっちょ、話まだですっ!」
柚木の肩を掴んで最初の位置よりもやや上の肩口へ戻した。
「月森くんを呼ぶよりも柚木先輩って呼ぶのがむかつくんですよね?」
「だから、」
「梓馬さん」
聞いた途端すとんと散るように不安で浮ついたものが声で重石がかかるように心地良い重さで安定した。
そしてわからなかった苛立ちの原因を唐突に理解した。
年齢からくる距離を感じていたのだ。
「先輩」と呼ぶ、誰よりも距離をなくしたい香穂子から。
「学校では無理ですけど二人のときは梓馬さんって呼びますね」
「此処でも呼べよ」
「嫌ですよ、親衛隊に呼び出されても助けてくれないのに」
言ってはいるものの、実際親衛隊から呼び出されて現実的な被害は被っていない。
香穂子いわく、「先輩の底意地の黒さから比べたら軽く聞き流せる」らしい。
「梓馬さんが卒業したら、何処でも名前で呼びますから、卒業楽しみにしててください」
「逞しいな」
「梓馬さんに相応しくなったでしょう?」
艶然と笑う気配がして少し心臓が跳ねた。
きっと、香穂子は無意識だけれど。
「男の人って精神年齢が実年齢より二歳下なんですよ。
梓馬さんは一つ上だけど、それだよ私より一つ下じゃないですか。
……だから、偶には甘えてくださいね」
にっこりと笑う笑顔が愛しい。
それを素直に出せない自分のひねくれ方が心底嫌になる。
だけれど幾ら湾曲しても伝える事に変わらないともまた思う。
「そ?じゃ、おコトバに甘えるとするよ」
体の力を抜いた柚木の体を香穂子は一瞬よろめきながらも抱きしめる。
母と子と見るには香穂子の腕は足りない。
「梓馬さんは、」
優しい声音。
やはり、この『声」は好きだ。
彼女から生み出される全てが。
「あたしよりいろんな事を知ってるし、世間を上手く渡って行けもしますけど」
「知ってるよ」
他でもない自分が、そうして生きてきたのだから。
「そうやって生きてきたから、甘え方は下手くそですね」
当たり前に言うその科白は柚木自身を識っているという何よりも甘美な「当たり前」。
柚木は弓張月の形に唇を象って、厭いながらも愛しいそれを塞いだ。
PR