あかねが奮闘した頃から3年後、結婚適齢期藤姫に会いに行かなくなった友雅。
「……鳴神がいらした時は、どうしたら良いのですか…?」
「先日いらした大府殿から文が届きましたわ」
女房からの恋文の報告を受け、姫は苦笑のような笑顔を向けた。
―――――――怒涛のような数ヶ月から三年後。
藤姫が十と三歳。
あどけなさが勝る中に時折におい立つような「女性」が垣間見える歳。
紅い椛が空を舞って朽ちて、晩秋がすぎようとする季節。
先日、泰明の占で決まった佳日に藤姫の裳着が執り行われ、入内適齢期となった彼女の元にはいくつもの恋文が舞い込んでくるようになった。
半数以上は左大臣家との婚姻関係を見越して藤姫を正室に、と目論む者。
その他は藤姫が御簾の奥の女(ひと)となる前に見初めて、裳着を待っていた者。
有難いとは思うが、全て断っている。
原因は最近、ぴたりと訪れてくれない、雲の様に掴めないあのひと。
大切なひとと共に此方へ残った神子に訊いてみても心当たりは無いようだった。
姉のようなあの女(ひと)は、年を重ねても変わらない、柔らかい微笑みと、ありったけの優しさで慰めてくれた。
それ以来焦燥に駆られる事はなくなったが、胸に広がり続ける穴は留まる所を知らない。
それどころか時折痛んで、それを誇示する。
会えない。
逢えないけれども文は毎夜くれる。
変わらなく薫る香が息災であることを報せてくれる。
決して忘れ去られた訳ではないことを知らせてくれる。
十分だと、思う。なのに。
「―――――――厭ですわ………」
「挨拶する暇なく厭とはつれないですね」
「………っ?!」
御簾越しで顔が見えない。
だけれどその向こうにはきっと微笑む優雅な顔。
逢いたいと渇望した、貌。
無言で衣擦れだけを残して立ち去る案内した女房に会釈した様子は窺い知れた。
「嫌われしまいましたか?」
おどけて言いながら座った拍子に文から薫るものと同じ香りがした。
「ど…うしてですの?」
顔が熱くなる。
空いた胸が塞がろうとする強さについていけなくて、痛い。
ゆっくりと長くて濃いため息を吐いた。
御簾越しだけれども。
もう、直に顔を見ることなんて出来ないけれども。
あの頃が、酷く恋しい。
あの日々なら毎日のように逢えた。
あの日々ならあかねが出かけてしまった後でも一人でいる自分の為に出向いてくれた。
「藤姫?」
「……鳴神がいらした時はどうすれば良いですか?」
子供のようだと思う。
「何か、どうしようもなく相談したいことがある時はどうしたら良いのですか…?」
きっと呆れる。
「ただ…逢いたいときは……」
だけれど何でも良いから、口実が欲しい。
ぱたり、と袿の袖に溢れた涙が落ち、染みて、濃い色を作って消えた。
それを滲む視界の中で見届けた直ぐ後にばさりと音がした。
見上げれば几帳を腕一押しで退けた友雅が立っていた。
ふわりと緩やかな秋風に煽られて、波打った友雅の髪と癖のない藤姫の髪が少しだけ揺れた。
「私に逢えず泣いていただけるのは嬉しいのですが、生憎私は姫の笑顔が好きなのですよ」
笑って貰えませんか、と言って両の手で涙を拭った。
頬に感じるぬくもりに落ち着きを取り戻した藤姫はふと現状を思い出した。
裳着を済ませた己と、元服などとうの昔に済ませた友雅が御簾を隔てず、あまつさえ友雅の大きな手は今―――――――。
「あのっわたくし………!」
顔に昇る熱が舌の回らなさに拍車をかける。
だが、友雅は藤姫が言わんとしてることを察して苦笑気味に話始めた。
「文を頂いたのですよ、貴女つきの女房に……」
「え……」
友雅は藤姫に柔らかに微笑むと何時もより僅かにゆっくりとした口調で話を続けた。
「貴女が余り眠れていないようだから、人払いをするから来てくれないか、とね」
「そう…ですの」
まだ、大人に守られている自分の不甲斐なさに落胆した。
そして、少し落ち込んだ。
ならば、女房からの文が無ければ来てもらえなかったのだろうか。
「珍しくね、出世をしようと思ったのですよ」
「は………」
脈絡の無い台詞に驚いた。
そして意味を理解して再度驚いた。
友雅という人間を知る限り、出世や身分に関しての興味は全く無いように思っていた。
但し、今の彼の地位と評判は実力だ。
任された仕事は滞りなく完璧にこなす能力と、男女問わず人を惹きつける才能がある。
ただ、それと男女比率はまた別問題だが。
どちらにせよ生活に困る身分では決して無い。
「手に入れたい姫君がいるのですよ」
「……っ」
ずきり、と胸がまた痛んだ。
この京に、友雅を出世に駆り立てるほどの姫君がいるのだ。
本当に友雅に手が届かなくなった気がした。
胸が、軋んで痛んだ。
「何しろ相手は左大臣様の大切な末の姫君でいらっしゃる」
「さだ……」
鸚鵡返しに繰り返しかけて、止めた。
「父君が話は私の準備が整ってから、と仰いましたので」
その続きはもう、藤姫には聞こえなかった。
寂しがっている間、友雅は頑張っていた。
ずるい、ひと。
一言、何か言ってくれたなら、何か出来たかも知れないのに。
だけれど知らなかったとは言え何も出来なかった自分の方に腹が立つ。
なのに、それを超えて甘い期待が胸を満たす。
拭われた涙が、また溢れた。
俯いた頭の上から優しい声が降りかかる。
「左大臣さまとの約束の期限は一年。
待って頂けますか?……我が姫君」
「お待ちします……有難う御座います………」
ひとつ、首をしっかりと縦に振って返事をした。
泣き止む頃にはどっと疲労が押し寄せ、意識を失うように眠りに就いた。
然程重くも無い体重を預ける藤姫を見て、友雅は思う。
まさか、眠りを浅くさせてしまうほど腕の中で眠る小さな姫の中で己の位置が重要なものだとは思っていなかった。
年頃の娘にありがちな、恋の憧れを自分に向けているだけだと。
所謂、「恋に恋して」いるのだと思っていた。
だが例えそれだけでも良かった。
親子ほどの年齢差なのだと自分を誤魔化してはぐらかしても、それでも嬉しかった。
裳着を済ませてすぐの頃、酒の席なのを良いことに左大臣に言ってみたのだ。
「貴方の末の姫君を北の方にしたいのです」と。
期待していた訳ではない。
ただ、踏ん切りをつかせる為に。
燻り続けて鎮火することも炎上することも無かった想いに、水をかけて終わらせたかった。
一蹴されると思っていた。
それで、良かった。
忘れられる。
あの少女を生涯幸福に満ちたものにすることが出来る男がきっと、彼女の前に現れるのだから。
己では、性質が悪すぎる。
頼久のような、忠義に篤い実直な男。
天真のような、己にも他人にも真っ直ぐな男。
イノリのような、感情を偽ること無い、大らかな男。
詩紋のような、純粋で天真爛漫な男。
鷹通のような、勤勉で誠実という言葉を人にしたような男。
永泉さまのような、自己犠牲だと考えずに、自分に出来る優しさの限りを尽くせる男。
泰明殿のような、冷静沈着な物の見方で嘘を絶対に吐かない男。
命に代えて仕事を全うしようなどと思わない。
真っ直ぐな生き方など必要ともしない。
感情を素直に出した日など、最早絵空事。
人間関係の酸いも甘いも噛み締めた。
真面目さは己にとって装うもの。
曲ねた心では親切はほんの気まぐれ。
嘘は、渡世術。
そうやって、長い間生きてきた。
だから、戯れの申し出は酒でも注ぎながら、と思った。
何を、と笑って欲しかった。
他でもない、藤姫のために。
盃を呷って見定めるように、左大臣は友雅を見た。
「友雅……か。
そうだな、友雅が身分を気にするのであれば、真面目に仕事でもしてみたらどうだ?
あとは、姫の意向ひとつだ」
簡単に了承されるとは思わなかった。
女房が視界の端で酒を注いだのが見えた。
だが注がれたそれが盃とぶつかる音は手元で鳴った筈なのに遠くで聞こえた。
姫が、望めば。
与えられたものは勿論、それ以外の仕事にも取り組み始めた。
元来不器用ではないし、要領も良い。
だから大して問題に直面すること無く仕事を進めていた。
酒宴から、暫く。
本当は藤姫付きの女房からの文ではない。
あかねから、藤姫の様子がおかしい、一度会って欲しいという趣旨の手紙が寄越された。
きっと気に病むから、自分からということは伏せて、とも沿えて。
藤姫に逢って、悩みの内容が他の男を想っての恋煩いならば、本当に諦めるつもりで。
藤姫の様子を知っていた彼女の女房も来た途端他の女房を下がらせ、案内するなり会釈して下がったのだから、藤姫の人柄が全てを語った気がして、また不釣合いな気がした。
そうして、今。
「此処まで意志が弱いとは……ね……」
一年後、己はこの姫を迎え入れる事が出来るだろうか。
まだ、わからないけれど。
それが小さな姫君の望みであるうちは。
「夜闇に煌めく星の姫君を恋う男のひとりにさせておくれ」
呟きは少し冷えた空気に融けた。
長い艶のある髪を一房。
音無く、落ちた口接け。
愛しさをその髪に染み込ませるように、長く、柔らかに。
髪に滑らせるように口接けたまま唇だけ動かす。
声は咽喉を超えないけれど、確かに紡ぐ。
囁くのは、愛の言葉。
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