沖田の願いと千鶴の我侭。
「少しの間、おやすみ」
※死ネタです。苦手な方は注意。
この世の夢で、また巡り逢いましょう
「総司さん、お加減如何ですか?」
「良くはないけど、千鶴の顔見たら元気になった気がする」
沖田の答えに照れたように笑った千鶴はもう、と拗ねた声音で言って、笑った。
笑いながら、ちらりと沖田を改めて見る。
病魔は緩やかに沖田を蝕み、羅刹の影響は水が流れ落ちるように沖田の終焉に刻一刻と近付ける。
痩せたな、とおもう。
剣客として活躍していたときも健啖家とは言えなかった。
永倉を筆頭に、良く食べる人間が多かった所為か少ないように思えたが、それでも成人男性として許容範囲だった。
毎日一緒に居ても気づく程には食も体も細くなった。
病と日焼けをしなくなったせいで青いほどに白くなった肌がそのまま消えてしまいそうな錯覚に陥る。
「何か食べたいものありませんか?
明日市が開かれるので、好きなもの作りますよ」
不安を払拭させるように、千鶴は笑った。
千鶴の質問には答えず、沖田は緩く笑って千鶴を抱き寄せた。
「そ、」
思わず名前を叫びかけた声は、戸惑いと羞恥に消える。
胸に押し当てられる形になった頬から伝わる鼓動は速いけれど、弱い。
「千鶴は僕が惚れるくらい可愛いし器量もいい。
多少ドジだけどそのくらいは愛嬌にしといてあげる」
「総司さん?」
唐突な、褒めたのかやっぱり下げたいのかわからない言葉の意図か掴めず、訝しげに名前を呼んだ。
「だからね、」
ほんの少し、腕の力が緩む。
沖田に拘束されていた呼吸が開放される。
「もし僕が死んだら誰かとまた結婚をしてもいいよ」
「……っ」
千鶴は弾かれるように勢い良く顔を上げた。
見る間に大きな瞳に涙を溜めてく千鶴に、沖田は困ったように笑った。
「やっぱり大変だよ、ここで女の子が一人で暮らすのは。
里に降りたら千鶴みたいな娘を放っておく男いないと思うしね」
零れそうな涙が落ちないよう、くちづけで掬う。
「でも僕みたいな男に引っかかっちゃ、駄目だよ」
優しく諭すようにとびきりの男と、と紡ぐ。
降り止まない口づけを遠ざけるように、千鶴は沖田の胸を押し遣った。
「う…、うそ、つき」
「ん?」
言われたことと涙に混乱した千鶴が必死に言葉を選びながら一言ずつ一音ずつしっかりと声にする。
「私がほかのひとと一緒になんかなったら、どうせ総司さん拗ねちゃうに決まってるじゃないですか」
ぜったい、いじわるいうんですよ。
泣くのを堪えているせいで不自然に呼吸が引き攣る。
「……そうだね、拗ねちゃうかもね」
「それに、世界がどれだけ広くても、時をどれだけ過ごしても、私にとって総司さん以上のひとなんているわけ、ない…っ」
たまらなくなり、千鶴は突っ張っていた腕を肩にかけ、背を伸ばして沖田に口接ける。
「今もこれからも…総司さんだけ……、総司さんだけがすきなんです…」
総司さんだけいてくれたらいい。
そう言いかけて、変えた。
どうしても叶わない。
その願いを一番願ってくれるのはこのひとなのに。
呼吸が上手くできない千鶴を宥めるように、沖田は千鶴の背中ごと抱えた。
「ごめんね、嘘吐いた。
本当は僕が死んでも僕だけ好きでいてほしい。
泣いても傷ついても、僕が最初で最後の男がいいなぁ」
そんなのは我が儘だと思ったんだ、と呟いた。
「総司さんの我が儘は今更です」
だから。
「私の未来も心も、もう全部総司さんのものです。
今更他のひとに渡しちゃうなんて、できないんですか…らぁっ?!」
最後の一音を待たずに、沖田は千鶴を抱えたまま布団へ背中から戻った。
神妙な心持ちだったが、突然襲った浮遊感に千鶴の声は跳ね上がった。
「ねえ、今日はこのまま寝ちゃおうか。
良い夢が見られそうだから」
「もう…」
咎めるように言ったが、もう黄昏もすぎた。
休むには随分早いがまあいいかと、それきり抵抗も止めた。
「良い夢ってなんですか?」
「そうだね、例えば千鶴と過ごす明日とかね」
「そんなの、夜が明けたらきますよ、絶対」
妙に癇に障り、千鶴は強い口調で言ったが、悪戯っぽい沖田の視線に制される。
「明日の明日、その次の明日って過ごしてさ。
羅刹じゃなくて、年相応に白くなった髪に永かったね、って笑いあう夢だよ」
沖田の腕がきゅう、と今度は力を込める。
もういっそ、沖田になれたらと願う。
そうすれば死すら怖くない。
季節の移り変わり、様々に変化する太陽の色、月の満ち欠け、…眠ること。
それらに怯えることもなくなる。
願いはなにもかも叶わない。
けれど沖田の心と、自分の恋心と、ふたりの夢は信じられる。
「良いですね、その夢。…私もみたいなぁ…」
夢に誘われるようにとろりと睡魔が纏わりつく。
「おやすみ、千鶴。同じ夢をみようか」
意識の深遠におちる。
気付けば煙るように白く霞がかった視界。
千鶴をみつけたくて辺りを見回していると不意に指を握られる。
驚いてそちらを見ると、小袖を着た千鶴がこっちです、と手を引く。
訳がわからないまま導かれるまま進むと、はらりと桜の花が舞う。
樹がどこにあるかはわからないが、そのことを気にかけることも忘れた。
花びらは勿論、花ごと舞っているのもある。
花で一瞬遮られた視界が瞬き一つ後に開けると、桜と正反対の浅葱色が閃く。
そこにはいたのは懐かしい顔ぶれ。
兄のように慕っていた近藤。
近藤が好きだった分憎らしかった土方。
口煩いと思うことはあったが、強さに信頼は置けた斉藤。
年が近い為か千鶴と恐らく一番千鶴と仲が良かった平助。
女の子が大好きで、必要以上に千鶴にも優しかった原田。
剣術と島原が好きで、良く平助とおかずの争奪戦をしていた永倉。
何かにつけて衝突していた山崎。
悪戯が過ぎてよく怒られた山南。
苦笑しながらも見守ってくれていた井上や島田。
気付けば自分も浅葱のだんだら羽織りを身に纏っていた。
千鶴は新撰組にいた頃の男装ではなく、着物を着ていた。
桜の下で笑う皆がすとんと心に馴染む。
ああ、還る場所だ、と思う。
今と記憶が融けた夢は泣きたいくらい、幸せだった。
白く煙る世界はこの上なく美しくて、満たされて。
雪白。
薄紅。
浅葱。
目が眩むほど美しい分儚くて、手を握る少し小さな手を引き寄せ、抱きしめた。
驚いたせいか少し体が強ばったが、すぐに余計な力を抜いて、苦笑混じりの吐息と一緒に抱き返してくれた。
突然何してるんだ、千鶴が驚いている、―――お前は相変わらずだと、制止したり笑ったりする各々の声に自然と頬が緩む。
そしてゆっくり目を閉じて噛み締める。
夢とわかっているから、幸せの終焉がすぐそこにあることもわかっているのだけれど、薄靄に包まれていたい。
そしていつしか夜闇を暁がこえ、彼誰時が包む。
夢は終焉を迎えて、もう随分見慣れた天井が暗くぼんやりと見える。
胸にかかる重みと抱きしめるぬくもりを見やると、この世界で一番愛しい存在が眠っていた。
「置いていきたくないなぁ…」
自分がいなくなったら誰が彼女を守るのだろう。
小さくて弱いのに、時々思いがけず芯が強くて、少し泣き虫で誰よりも恋しい。
千鶴。
恋人や、妻や、伴侶だとか、そんな名前では言い表せない存在。
敢えて名前をつけるなら、彼女の名前こそが、その関係の名前。
他には代えられない。
「僕はどうしても泣かせてばっかりだったね」
この薄氷のような幸せを手に入れる前も、つらい思いをすることが多かったから、泣かせたくなかったのに。
気付かない振りをしていたけれど、迫る自分の死にひとりで泣いていたのを知っている。
慰めることは出来ても涙を止めることはできないから、泣きたいだけ泣かせて、涙が残る笑顔に見ない振りをしていた。
だから辛くなるなら自分を忘れてもいいから、千鶴に幸せになってほしいと、人生で一番殊勝な願いを心から願った。
自分にとって彼女の代わりはいないけれど、未来がある彼女に自分の代わりはいると思った。
けれど当の彼女が心を明け渡してくれるから。
自分以外の、他の誰にも渡さないと決めてくれているから、もうどうやったって手放せない。
少し首を動かして、髪にくちづける。
「おいていきたくないなぁ」
もう一度呟く。
力を込めたはずの腕にはもうそれらしい力は入らない。
「忘れないでね、僕の心はもう君のものだよ」
髪に口を押し当てたまま、話す。
泣き顔を見ていきたくはないから、起こさないまま、さよなら。
「ごめんね、千鶴。
いつも振り回してばっかりだったけど、今回ばかりは畔で気長に待っててあげる。
だから、ゆっくりおいで」
はたり、と落ちた涙が千鶴の髪を濡羽色にする。
「少しの間、おやすみ」
唇が艶のある髪から離れる。
余り低くない声の余韻が闇に消える。
暁はいつしか薄明に薄れ、東雲が覗き、曙に染まる。
黎明を迎えた、明け色の空気にふと目が醒めた千鶴は一晩抱きしめてくれたひとを見る。
「ん…総司、さ……」
抱きしめてくれる痩せた腕は変わらない。
否、まだ変わっていないだけと気付く。
微弱にも感じられない心音。
微熱で少し熱いくらいだった肌は出逢った頃のそれ。
周囲に敏感なひとが、名前を呼んでも起きない。
喪失の確信と恐怖がひたりと千鶴の背を撫で、そのまま張り付く。
「そ、そう…そうじ、さん……」
おきて、ねえ、ちづるって、よんでください。
数刻前の当たり前が、今の願いになる。
願いは叶わないと知っていても。
「…そ、う…っ」
久しくここで、彼の胸で泣くことなんてなかった。
喪失の恐怖と寂しさに泣いたことに気付いているとわかっても、泣けなかった。
泣きたくなかった。
沖田といるときは笑っていたかった。
彼が彼岸で回顧したときに、どこを思い出しても笑顔でいたい。
だから、今だけは、どうしても言えなかった一番の願いごと。
「いかない、で…っ」
ずっと言わなかった。
ひとりのときでも、心の中で千々に千切れるくらい叫んだが、声に出来なかった。
「おいていかないで……!」
けれどもう聞かれないから、見られないから、胸に縋る。
その願いを口にしている自分が、口に出しているからこそ叶わないと知っているのに。
恐ろしいほどの無音が広がる。
「いや、いや…ぁ…っ総司さ…総司さん……!」
この胸の奥に巣くう病が何故自分は罹患しなかったのだろう。
「いくならつれていってください…!」
彼と同じものなら呼吸を冒される苦しみも、鉄錆の咳にも耐えられる。
おいていかれるよりはずっと。
いかないで。
ひとりにしないで。
願いに応えてくれるひとはもういない。
「――――っ」
漠然とした不安が形になり、現実となったことに心が潰えてしまいそうだ。
いや、もう我慢をする必要もないのだ。
奔流のような感情に任せ、消えるならそれでもいいと心を手放しかけた。
(忘れないでね、僕の心はもう君のものだよ)
不意に聞こえた気がした。
思わず顔をあげたが、何も変わらない。
長い睫に縁取られた若草の瞳が自分を映すことはない。
ゆっくり冷える沖田の体温は夢の名残のよう。
けれど、なにか大切なことに気付いた。
冷えた沖田の唇に、涙で濡れ喪失に震える唇で触れる。
心からの愛しさと感謝と、恋心を込めて。
「おやすみなさい、総司さん。また追いかけていきますから――良い夢を」
哀しみに歪む顔で、精一杯に微笑む。
心が沖田で埋められていた分、そこは酷く痛む。
けれど沖田との思い出が残る土地で、彼の記憶と生きる。
綻んだ桜、陽射しの強い日の木陰、鮮やかに色づく錦木、舞い散る六花。
沖田との想い出を少しずつ思い出して、また大切に仕舞う。
例えいなくなっても、逢えなくても、沖田といた記憶は変わらない。
寂しくない訳ではなかったけれど、花に見送られ、風に抱かれ、空と移ろい、彼や、彼らとの想い出と共に生きるのは存外満たされていた。
沖田がいない世界での時はゆるゆると過ぎ、新選組と、沖田といたときよりも長い長い時間が廻る。
結わえた髪は、彼の刀と同じ白刃色になった。
手の皺が増えた。
千鶴の心を置き去りに身体は少しずつ変化をする。
移ろう時の中で沖田への想いは変わらない。
動乱の時世でも、不治の病でも曲げられなかった想い。
当たり前に過ぎる時間なんかで、変えられるわけがない。
千鶴自身、こんなに色褪せない想いがあると知らなかった。
いつかの沖田の心音のように、弱いけれどしっかりと、ほんの少し早く息づく。
あいしてるなんて言葉では足りないくらいに。
満たされているけれど、深くなる想いを告げられないのは息が詰まるようで苦しい。
それすら――その想いの存在に出会えたことが幸福におもう。
もう一度出逢えたら、またあなたに恋をしたい。
動乱の幕末で出逢えた奇跡をもう一度、あなたと。
また、巡り逢うために
(おやすみなさい、総司さん)
桜の花が開くようにほろりと微笑み、散るように音もなく瞼を伏せた。