「幸福論」の前の話です
柚香っていうか柚木と雅嬢。
「『恋人なんて作らないでね、絶対よ!』」
自室でひとり、柚木は机に向っていた。
何のことはない、無言と有言を最大限に活用した圧力で小さい頃からの習慣になっている、成績維持のための「自発的な」勉強だ。
(こんなもん、か)
それが一段落着き、ノートを閉じた。
来ていないとは思うが、携帯を開く。
誰から来ていようが気には留めない。
が、唯一香穂子だけは別だ。
だがその香穂子は柚木家での自分の立場と、三年であることで遠慮して早々電話どころかメールも余りしてこない。
遠慮して欲しいのならそもそもアドレスも番号も教えない。
そういう人間だと知っている筈なのに。
最初こそ携帯にそこまで執着していないのかと思っていたが、自分からかけたときは十秒置かずに出る。
(可愛い奴)
机に携帯を置いた拍子に、香穂子から貰った根付けがかつんと音を立てた。
『先輩の携帯、愛想ないですよねー』
帰りの車内で唐突にそんなことを言い出した香穂子。
今考えるとそろそろと機会を伺っていたのだろう。
『良いんだよ面倒臭い…』
『だ、だと思いました…。でもこれだけ付けて…くれませんか?』
恐る恐る出した箱の中には小振りのストラップが付いた根付け。
『ふぅん。断ったらどうするの?』
『も、なんで…!』
慌てる香穂子を横目で見ながらそれを携帯にするするとつける。
断るはずが無いのに、一喜一憂する。
『~~っ有り難うございますっ』
ぱっと音が出そうなほどの笑顔。
思い出して、笑みが零れる。
学校では笑顔をがちがちに固め「みんなの柚木さま」とやらを演り、家では「でしゃばらないながらにもそれなりな優秀な三男」を演って。
それでも香穂子がいるだけで。
―――コン、と控え目に扉をノックする音が聞こえひとつ返事を返した。
「お兄さま?雅です」
「ああ、入って良いよ」
扉から覗かせた表情は、柚木と目が合った瞬間にあからさまに驚いた顔をした。
「雅?」
「凄くびっくりしたわ。お兄さま、何か良いことあった?」
「え…?」
そこまで、わかりやすいだろうか。
家に香穂子の存在が広まった時の彼女にかかるリスクを考え、さっと顔が強張った。
「やだ、きっとあたししか気付かないわ。
この家でお兄さまを一番見てるの、あたしだもの」
ね、と駄目押しに微笑まれ、ひとまず信じておく。
それに多少様子が違うくらいで恋人の存在を気取らせることはしない。
「…お兄さま?」
「あぁ…どうしたの?」
ふふ、と自分に似た顔を微笑ませ、勢いをつけて抱き付いて来た。
「わっ」
雅に抱き付かれたくらいは大したことはないが、不意打ちで一歩分バランスを崩した。
「お兄さまが高校に入学する前、あたしがなんて言ったか覚えてる?」
「入学前…?」
確か、音楽は高校までだと釘を刺された日。
こんな風に抱き付かれて、
「『恋人なんて作らないでね、絶対よ!』」
「……言ったね」
あの頃はそんなこと律義に守るまでもなく、そんなもの必要ないと思っていた。
恋人どころか、友人すら。
雅に、なら。
「みや、」
「あのね、撤回するわ」
腰に両腕を回したまま、晴れやかな笑顔を見せた。
「恋人がいるなら、今度あたしには紹介して欲しいわ。
お兄さまが選んだのなら、素敵なひとなのでしょう?」
「…ごく普通の娘だよ」
癖のある黒髪をそっと撫でる。
「ううん、お兄さまにそんな顔させてくれるもの。それだけでとびっきり素敵なひとよ」
心から嬉しそうに笑う雅が、少し羨ましく思った。
「そう、だね」
その答えに満足したのか、でしょうと何故か雅が得意げに言いながら回した腕を放し、椅子に腰掛けた。
「どんなひと?なんで付き合うことにしたの?」
聞いてくる瞳には隠し切れない好奇心が輝いている。
世間の少女がそうであるように、雅もその手の話は好きらしい。
要望に応えるべく、香穂子の子細を手繰る。
否、手繰る必要なんてない。
いつも、誰よりも想っている少女。
真直ぐで、一度決めたら最後までやろうと努力して、それでも折れたかと思えば次の瞬間にはまた決意新たに頑張っている。
危なっかしい上百面相ときたら目が離せる筈が無い。
ひとつのことに一生懸命になるから、ひとつで手一杯なのに困っている誰かがいたらお節介と煙たがられても力になりたいと思う、馬鹿みたいな奴だから。
傷つかないように守りたい。
妹に視線を投げる。
いつか、妹もこんな恋をして欲しい。
全力で誰かを愛することができて、全力で誰かに愛されることができて、それが自信になるような。
「――――いつか、『柚木に生まれたからには柚木が決めたひとと結婚すると決めれてきた』って話をした時に…」
酷く傷ついた瞳を見せた。
その時がきたら、自分は気付かせないように手酷く傷付けて、解放してやるつもりだったのに、愛しさだけが増した。
思わず大丈夫だよ、と言えばこちらが心配するほど安心しきって瞳を潤ませた。
だが、すぐに考えるように瞳を伏せたかと思うと心配げに言い募った。
『雅ちゃん…雅ちゃんも恋を掴めないうちに結婚させられますか?女の子なのに…』
「その時は自分も出来ることはするから、助けてあげてって泣きそうになる娘だよ」
女だからと言ってあからさまな政略結婚は例外にならない。
むしろ柚木の生まれで血を残せるのだ。
母は心を痛めているが祖母はそうもいかない。
義母に進言できるような母でもない。
驚いて見張った雅の瞳がじわりと濡れた。
「凄く、嬉しいわ」
ぽつりとそれだけ言って立ち上がり、扉に手を掛けたところで振り返った。
「恋人が出来たら、お兄さまよりもお兄さまの恋人に紹介しに行くわ」
「は?」
「だって、お兄さまとその根付けを選んだ方でしょう。間違いないわ」
今度は声も出なかった。
悪戯が成功した子供のように笑って取手にかけた手を少しだけ引いた。
「気付いているのはあたしだけだけど、居間に携帯を持ってきちゃ駄目よ?お兄さま」
手なりに開けた扉を通りぴっちりと閉めた。
根付けを見られたのは雅が入る一瞬。
さり気なく袂に忍ばせたのだ。
「………ふ…」
ころんと携帯を出し、指先で根付けを撫ぜる。
今はご飯時だから、寝る前にでも電話をかけてやろうか。
また、五コールしないうちに弾んだ声を聴かせてくれるだろう。
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