柚香ですが、柚木と冬海しか出てきません。
ぱっと見美術館デートに見えなくも無いですが柚香。
「冬海さん、僕が怖くない?」
久し振りに空いた休日。
柚木はひとりで美術館へ赴いていた。
本当は香穂子を連れてどこか出歩こうと思っていたが、天羽との先約があると意気消沈しながら告げられた。
申し訳なさそうにする香穂子に、遅くならないうちに帰れとだけ言って頭を撫ぜた。
そのまま予定を好き好んで埋める訳もなく、本当に久方振りにひとりで過ごしていた。
展示物はそちらのほうにも教養がある柚木を楽しませていた。
が、やはり香穂子がいるのといないのでは大きく違うらしい。
いれば感受性も好奇心もある香穂子は、はぐれないようにと掴んでいる袖を引いてあれこれ聞いてくるのだろう。
それを想像して浮かぶ笑みは、それが無いことに打ち消される。
(病気やら麻薬やら、よく言ったものだな)
たった数ヶ月。
それだけで十七年培った自分の人生は大きく変わった。
……光が、射した。
今度は打ち消すものが無い笑みを口許に佩いた柚木は、通路に沿って作品を見上げた。
(ん?)
一生懸命背伸びをしている、小柄な少女。
香穂子と同じくらいに出会った、ふたつ下の――――
「きゃ…」
背伸びをしていた彼女の眼前にいたひとがそうと知らず、そのまま後退しぶつかった。
が、爪先で立っていた彼女がそんな突然のことに対応出来る訳も無く、そのままぐらりと後ろによろけた。
「……っ」
思わず伸ばした腕で、小柄な分香穂子よりも幾分華奢な、細すぎる感すらある肩を抱き留めた。
「…大丈夫かな?冬海さん」
「ゆ、柚木先輩っ」
緊張でさっと肩を強張らせ、頬に微かな朱が走った。
が、それはすぐに青褪め、色を無くす。
何を気にしているか手にとるように気付き、意図的に笑った。
「気にしないで。香穂は後輩を助けない方が怒るよ」
言って、体勢を整えるのに手を貸した。
「あの、有り難う御座います…」
ぺこりと頭を下げ、香穂子の手前別行動しようと踵を返した冬海の前には一瞬のやり取りのうちに増えた人だかり。
柚木に微苦笑が漏れる。
以前の自分なら、こんなこと考えても実行しようとなんて露ほども思わなかった。
「…危ないし僕も気になってしまうから、一緒にいようか」
「……すみません…」
正直なところ、柚木はこの後輩に対し、さしたる期待はしていなった。
音楽は勿論のこと、芸術の造詣に関することもありとあらゆる事柄に対し、実がある話が出来るのは後輩群では月森か志水くらいだと思っていた。
が、気が弱すぎるほどの後輩は、展示物を見ながら話しかければ感想も意見も言う。
言い方も言い回しも控え目ながら、的は得ている。
感性で答えるが決して好きだの嫌いだのの感情だけで答えたりはしない。
(『コンクール参加者』は伊達じゃないか)
香穂子に冬海に対し「大したことない」と評した時、彼女は眉を吊り上げ睨んだことを思い出した。
―――――冬海ちゃん、先輩が思ってるより根性ありますよ!先輩とはやり方が違うだけですっ!
わざわざ他人のことで怒るなんて、面倒な奴だと思った。
今は香穂子らしいと微笑える。
香穂子と出会ったから、微笑える。
「柚木先輩?」
次へ行こうとしたが、なかなか動かない柚木を訝って声を掛けた。
ついと柚木は瞳を細めた。
「冬海さん、僕は怖くない?」
冬海はただ目を丸くして見上げる。
聞くひとが聞けば反射的に男性に萎縮してしまう冬海の性情を慮ったものだ。だが違う。
聞いたのは香穂子しか知らない柚木の、冷たく冬海を見下ろせる部分。
それを冬海が知る必要は無い。
問うたとはただ突然の興味本位だ。
香穂子によって変わった自分は、同じく変わった彼女にどう映るのか。
少し逡巡するように視線を彷徨わせた冬海はゆっくりと口を開いた。
「本当は怖かった、です。
すみません…。
評判もですけれど、本当に完璧なひとで、全部見透かされた気持ちになってしまうんです」
少しだけ、驚いた。
確かに笑顔を被せたその中で裏を見ようとしてきていた。
そうする必要が自分の人生で必要だった。
自分を利用しようとしているなら逆手を取らなければならないし、底の浅い相手なら嘲笑している必要が、自分の中であった。
だが冬海の言葉はその意識は無くとも、自分を卑下した故のもの。
微かに見張った柚木の黄金の瞳の中で、俯いた冬海がでも、と繋げる。
「香穂先輩といらっしゃるときの先輩は、穏やかで優しくて。
大切にしてらっしゃるの、よくわかりましたから」
気にかけて、自分を真正面から受け止め、微笑ってくれた、尊敬しているひと。
そのひとの側にいて、幸せそうに微笑んでる眼前のひとが真実悪いひとである訳がない。
離れて見れば些末な変化。
それでも自分は、冬海笙子は気付いたのだ。
「…冬海さん」
「は、はい」
穏やかな気持ちで柚木は願う。
香穂子にとっての幸せは何処にでもあって、それは柚木が努めて忘れてきたもの。
だから、どうしても見失ってしまう。
だけれど気付きたい。
香穂子の幸せをひとつひとつ拾って、ふたりで掴んでいけたら。
「僕は、香穂子を幸せに出来ると思う?」
琥珀色の真摯な瞳が柚木を見上げる。
「……先輩は、真直ぐな方ですから、私が見てる分では凄く幸せそうに笑ってらっしゃいます、よ」
それが答えではないですか、と呟いたソプラノは柚木の耳だけを残して空気に融けた。
「柚木先輩、有り難う御座いました」
「僕の方こそ…有り難う」
あれ以降、会話らしい会話はさしてしていない。
冬海は必要だった訳ではないというよりも、余程気心が知れない限り会話自体苦手な部類だからだ。
そのまま淡々と、駅まで送った。
「それじゃあ冬海さん、気をつけて帰ってね」
「はい。それではまた…学校で」
ぺこりと頭を下げた冬海に背を向けた柚木の背中に先輩、と声が掛かった。
ゆっくり振り返ると、駅へ向かい柚木に背を向けていた筈の冬海はこちらをまっすぐ見ていた。
「あの、香穂先輩、今日奈美先輩と隣りの街まで行ってますから、もうすぐしたらここに来ると思いますよ」
失礼しますと告げもう一度頭を下げ、踵を返した。
人込みに消えた姿を見ながら、柚木はゆるゆると笑った。
そして葛藤するまでもなく、ベンチを見つけ腰を下ろした。
幸い、日没とともに冷えていくこの季節にこんなところに座る奇特な人間は、この人込みの中柚木ひとりだ。
(予想外のことをするのも香穂子だが、予想外のことをさせられるのも香穂子だな)
半年前の自分なら、確実に喫茶店にでも入っている。
今もそうといえばそうだが、自分の行動理念は香穂子がいれば、香穂子中心に周る。
香穂子の甘い空気は心地良くて。
香穂子が薬物ならもう立派な重篤な中毒患者だ。
抜け切るなんて一生かかってもできない。
遠くで聞こえるアナウンスに続いて、徐々に近付く電車の音に、緩慢に首を巡らせる。
もう暫くすると人込みの中に更に人込みが増す。
何百いようと唯一求める姿を見つけ、口角を上げた。
立ち上がると、冬海と美術館を出たときよりも冷たい風が吹いた。
彼女があまり寒い思いをしてなければいいと漠然と思う。
そして、
劇薬の禁断症状に似た愛を胸に、その名を呼んだ。
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