無印の「うざいんだよ」イベント後の柚香。
そういえば概ねいちゃいちゃしてるゆのかほだけだったので。
「あのー待ちました?」
危ないときに、全てがスローモーションに映ると聞いたことが、ある。
今になって思えば、それはあながち間違いでも無かったんだと思う。
白と黒が明滅する思考が認識したのは、真青な空を背景にゆらりと靡く幾筋かの濃紫の髪と、瞳を彩る殺気がじわじわと鋭利な刃を形作る様だった。
綺麗な造形の唇だというのに、皮肉げに嗤う。
「うざいんだよ、お前」
そうやって普通科のヴァイオリニストに「本性」を見せて一晩。
どうなるかと思い、柚木は半ば逆境を楽しむ気持ちで登校したが、周囲の反応は変わらない。
いつもと変わらない挨拶をして群がる女子生徒を延々とやり過ごす。
(あいつが言いふらしてもやっぱり無駄だったか……)
自分の今の学院での地位が一転すれば、困らない訳ではない。
ただ、究極的には困らない。
自分で望んだ事ではない。
望まれたことに応えやすい素地であるだけだ。
わらわらと自分に群がってくる女子生徒や、優等生と信じきってる教師はこんなこと聞いたらどう思うだろうと考え、けれどそれを綺麗に押し隠して柚木は微笑を浮かべて挨拶していく。
自分を嘲笑しながら長い校門前を歩く。
ちら、と歩調に合わせて揺れる蝦茶の髪をみつけた。
柚木の近くにいた女子生徒が、柚木の視線の先に香穂子を見つけて眉を顰める。
更にそれに気付いた女子生徒たちの悪口が柚木の耳に届き、けれど聞こえない様子で笑みを深めるように口角をあげた。
引き止めようとする声に一度だけ立ち止まり、そのままの微笑を返して香穂子へと向かった。
ゆっくり手を伸ばし、歩調に合せて無防備に揺れる腕を引いた。
「おはよう、日野さん」
ひび割れるように凍り付くと思っていた香穂子の表情は、迷いはしたが、いつもどおり、笑った。
「柚木先輩おはようございます」
そこで柚木は今日初めて、眉を顰めた。
掴んだ腕を握る手に軽く力を込めた。
「………お前さ、まさか昨日のあれが夢だとか馬鹿思ってんじゃないだろうね」
「あーやっぱり夢じゃありませんか。…ちょっと思ってました」
あは、と笑う香穂子に苛立った柚木は見下ろす視線を一層怜悧にし、手に更に力を混めた。
「ちょ、先輩、さすがに痛……」
「お前、むかつく」
香穂子がその言葉を理解する前にぱっと腕は解放された。
柚木は流れるように踵を返し、香穂子と距離を取った。
ふわりと浮いた髪が落ちきる寸前。
柔和だけれど翳りを帯びた笑顔で振り返った。
「じゃあ日野さん、放課後、屋上で。ね?」
にこりと笑った顔は、綺麗だけれど。
何かを言いかけた香穂子の唇は、音にならず引き結ばれた。
「おはよ香穂子!」
友人の明るい声が香穂子に届き、香穂子も笑った。
「ねぇねぇっ!今の柚木先輩だよね?何話してたの?」
「ん?なんでも…大したことじゃないよ?」
香穂子は迷わず答えた。
「だからぁー柚木先輩がするなんでもない会話っていうのが気になるんじゃない」
苦笑してなんでもないよ、と重ね、普通科棟へと歩いた。
屋上で、といった柚木は陰になる場所で壁に寄り掛かっていた。
来いと暗黙に告げはしたが、来なければ良いとおもう。
だから、恐らく日野香穂子が人生で初めて脅された場所にした。
優しいと思っていた先輩が、真逆に変貌した場所。
けれど、彼女は来るだろう。
そう思うから、わざわざこうして待っている。
カチャン、とドアノブが回る。
「あのー待ちました?」
陰になっているのに、迷わず柚木がいるほうへ、香穂子は顔を出した。
「ふぅん。本当に来たね。根性と図太さは認めてあげる」
「褒めてないじゃないですか」
香穂子は臆することなく話をしている。
本当に根性はある、と柚木は片眉を少し上げた。
「……なんで触れ回らないの?」
その科白にきょとんとした香穂子は小首を傾げた。
「は?」
「普通怒ったり怖がったりするとこだろ?」
少し考えるように視線を下げた香穂子の様子に柚木はあたりをつけ、笑った。
「なに?まさかこんな性格が形成されたおれの環境を可哀相とかおもってる?」
胸にかかる香穂子の髪を首元から掬い、言葉を重ねる。
存外指通りの良い髪を指に巻き付けた。
「可哀相だから、ぬくぬくと育った自分が癒してあげよう、とか?」
困惑の色を浮かべる香穂子の顔を歪ませる為、指に巻き付けたその髪を思い切り引こうと、力を込めた。
「馬鹿言わないでください、先輩」
一瞬理解出来なかったが、柚木は楽しげに口許を歪めた。
「馬鹿って言った?おれに?」
「う、……じゃなくてですねっ、慰めるとかわけわかんないこと言うからじゃないですか!
言っときますけど、そんな義理何処にもないじゃないですか」
義理、と言われ柚木は思わず吹き出した。
「義理ねぇ。ま、そうなんだけどな」
けれど、気がついたときには柚木のそばには、柚木の家や、柚木が飾り立てた付加値が目当ての人間があまりにも多くて。
家族は家族で、息が詰まる場所だった。
「それが慰めない理由です。
それから、言いふらさない理由ですけど」
興味なさげに柚木はくるくると香穂子の髪を弄り始めたが、しっかりと聞いている。
香穂子は察しているのかどちらでも構わないのか、気に止めずに続ける。
「慰める義理がないのと同じくらいには、柚木先輩が作ったものを壊す権利なんてないと思ったんです」
「余裕だね、影でも正面きっても色々言われてるのに」
「まあだからこそなんですけど」
パラ、と巻き付けていた指から髪を離した。
「もう良いですか?」
「まあね。お前にそんな大層な嘘吐けないだろうし」
「………アリガトウゴザイマス」
「それから」
髪に視線を向けていた柚木の瞳が、紗幕のような睫毛越しに香穂子を捉える。
かちりと音が鳴るように視線がかち合う。
香穂子の瞳の色は、昨日と変わらない。
「………思ってたより根性あるのは認めてあげる。頑張れば?」
ぱちぱちと瞬きをして、香穂子はそこで漸く笑みを浮かべた。
「有り難う御座います」
柚木が髪を掴んでいたせいで近かった体を起こして距離を取る。
それを話が終了したのを合図に、柚木が一歩後退して香穂子が一歩横へずれた。
「それじゃ、失礼します」
その間を、ふわりと薫風が駆ける。
「あ、先輩」
二、三歩扉へと進んだ香穂子がふいに立ち止まって振り向いた。
屋上が高いせいか、まだ緩い風が吹いている。
「私、今の先輩のほうがいいですよ。それから愚痴なら聞いてあげます」
最後の科白は揶揄っぽく。
けれど、香穂子の瞳はしっかりと柚木を捉える。
鮮烈なほど、まっすぐに。くらり、と目眩がした。
何処かでサラサラと何かが崩れる音がする。
それが何か、どこか、わからないけれど。
「聞くだけなら猿でも出来るからね、日野さん」
「なっさっ猿は途中で何処か行っちゃいますもん!」
反論として何か違う、と柚木は思い、気付いたときには笑っていた。
「ははっああもう、むかつくね、お前」
「言ってることと態度違いますけど」
「もう良いから。また脅されたくなかったら行けば?」
少しむっとして、でも最後の一瞬でやっぱり笑って、香穂子はまた背を向けた。
扉が閉まった余韻さえ消えた頃、柚木は追い詰めるように対峙していた香穂子が背を預けていた壁に、ゆっくりと背を預けた。
緩い風に晒され、香穂子のぬくもりはもうない。
それで、良かった。
たっぷり水を混ぜた水色の絵の具を、一筆で一気に紙面に引いたような空を仰ぐ。
「……馬鹿はおれかな」
空の絵の具に、一緒に溶け込むような声は自嘲に響く。
昨日も今日も、いつだって変わらない。
日野の、まっすぐに射抜く瞳は、上辺しか見ない人間に囲まれていた自分には鮮烈すぎて。
だから、捕らわれる。
いけないとわかっているのに。
自分が築き上げた虚構が全てなのに、それがあっけなく壊されそうで。
空も遮断するように、柚木は瞼を閉じる。
けれど思い出すのは昨日の一件。
温室で花を育てるように、必要以上のものを与えられ生きてきたから、危険なんて知らずにいた。
だから、危ないときに、全てがスローモーションに映るなんてこと聞いたことしかなかった。
今思い返せば、……自嘲するけれど、間違いでも無かったんだと思う。
黒に塗りつぶされた思考が認識したのは、真青な空を背景にさらりと靡く幾筋かの蝦茶の髪と、瞳を形作る、鮮烈な視線の中の自分。
掛け値無しの自分まっすぐ見るその瞳が、ざわりと胸を掻き混ぜる。
驚愕に彩られた口許は、何も告げることはなかったけれど。
その瞳が何かを壊すと、警鐘が鳴った、気がした。
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