大学卒業目前の香穂子と柚木家のお祖母さま。
「香穂子、立てる?」
カコン、と鹿威しの音が響く和室に人影が五つ。
ピンと張った背筋が気にならないほど緊張している香穂子の前には紫がかった銀髪を紺の着物同様きっちりと結い上げ、じっと香穂子を見ていた。
先に案内され柚木の隣り、下座に座っていた香穂子の斜め前、上座に彼の祖母が座った。
年齢を感じさせない威圧感と存在感。
今柚木家でこのひとが「柚木」の象徴だというのならば、そういった意味で、隣りに座っている恋人は確実に柚木の人間だ。
思わず逸らしてしまいたくなるような、本当に射抜くのではないかと思うほどの視線。
だけれど逸らしたくはない。
彼の半生には常にこのひとがいた。
いつしか辛いとか悲しいとか、思うことすら忘れていたと言う、恋人。
なら、これからは側にいて辛い事は一緒に感じたい。
それより多くの喜びをあげたい。
唐突に手を握られた。
「香穂子」
口許に緩やかな弧を描いて、彼が吹くフルートのように優しい声音で名前を呼ぶ。
側にいたいと、自分の正直な気持ちを言ったときと同じ笑顔。
前を向いて柚木の両親と祖母に向き合った。
「星奏学院附属大学四年、日野香穂子と申します。
梓馬さんと高校二年からお付き合いしてます」
言い切った香穂子に遠慮することなく、そのひとは嘆息し、柚木と香穂子を睥睨した。
「きちんと挨拶に出向けば私が許すと想いましたか。
……こんな、一般の方と一緒になるだなんて」
会ったこともないひとから蔑まれるような家族では無いと目に険が篭ったのがわかった。
だがずっと握ってくれているぬくもりのお陰でなんとか自分を押し止どめた。
香穂子を睥睨していた瞳に更に威圧が篭る。
「幾らお支払いすれば別れて頂けますか」
「出来ません」
さっきはなんとか自分に言い訳して止どめたがこれだけは駄目だ。
信じてくれているぬくもりがあるからこそ。
気がつけば香穂子は遮るようにしてにべもなく断っていた。
「寧ろお金で解決するならあたしが幾らでも作ります。
だけどお金を頂いて梓馬さんと別れるだなんて、出来ません」
握り返した手に少し力を込めた。
「……お祖母さま、今日は許して貰いに香穂子を連れてきたのではなく、報告に呼んだんです。
僕が、何の覚悟も無しに来させると思いますか?」
金の瞳が決意に閃く。
柚木は「柚木」の人間であることを盾に取った。
体裁か粛正か。
柚木が言い切った時点で考えが読めた祖母は苦い顔をした。
「柚木を、家を出て…あなたが生きて行けると思うのですか……っ」
「ただ呼吸をしてくよりもずっとマシです」
すっぱりと言い切る柚木から視線を外し香穂子を睨み付けた。
怯みながらもその視線を受けた香穂子を暫く睨み付け、ふいと視線を逸らし、今度は毅然と見た。
眼差しだけでは分からない。
だけれど憎悪は押し隠されている。
「とりあえずお帰りなさい。こんなこと性急に決められる訳ないでしょう」
ふ、と香穂子は小さく息を吐いた。
元より今日一日で決着を着ける気はなかった。
たかだか二十歳を過ぎたところで結婚だの言っても親からすれば夢物語も良い所だ。
「香穂子、立てる?」
言いながらも慣れない正座で強張っているだろう香穂子の脚を気遣って手を差し出す。
香穂子も極自然にその手を取った。
必要だったから、というより慣れてしまったから。
車に乗る時も香穂子が知らない場所を先導して歩く時も、始めに笑顔と共にその手を差し延べる。
必ずしも柔和な笑みとは言えないけれど、柚木だからその笑顔は好きだった。
「有り難う御座います」
香穂子の手を自分の腰の高さで握って、柚木はゆっくりと玄関までその手を引いた。
見送ろうとした柚木の母を祖母は一瞥で牽制し、そのまま部屋の奥へ入った。
「…送るよ」
「いえ、タクシー拾います」
香穂子は握られた手に軽く力を込めて、手を放すと言外に告げたが、それは叶わず手を引かれ抱き締められた。
「……………」
「梓馬さん?」
小さく何かを囁かれ、香穂子は少しその肩に頬を預けた。
「………っ」
泣きそうに息を詰まらせた柚木の様子に香穂子は黙ってほんの少しだけすり寄せた。
「悪かった……。
でも、もう香穂子がどれだけ傷ついても、どれだけ泣いてもお前だけは離せない」
咄々とした、いつも自信に溢れている柚木とは思えないほど掠れた声が香穂子の耳を掠める。
「梓馬さん」
こういうときはやはり女が強いのだと心の片隅で思う。
不安感は、ない。
「あたしは梓馬さんがそうやって、あたしをすきでいてくれたら、どんなこともしてみせますよ」
言うと子供が親にそうするようにぎゅっと体に腕を回した。
「あたしを誰だと思ってるんですか。
ヴァイオリンどころか音楽ど素人で総合優勝した女ですよ」
あの時は彼が「辞退しろ」と言ってきたから、頑張れた。
もし「頑張って」「無理しないで」と言われ続けてたら甘えて、投げ出していた。
今はこうやって、離さないときつく甘く束縛してくれている。
それが何よりも力になる。
「叶えてみせます」
全身全霊の気持ちを与えられて力になるなら、それは、愛だ。
「あたし帰りますね。
お姉ちゃんから「ちゃんと報告しろ」って言われてるから」
「「玉砕」って?」
「お陰様で」
くすりと笑いあった後で香穂子は柚木にぺこりとお辞儀して柚木家を後にした。
香穂子に向けていた笑みは香穂子が見えなくなるのと同時に薄く消えていった。
そしてのろのろと足を進め引戸を閉めた。
「本当にお前は……」
言葉ひとつひとつが愛しさを伴って春の日差しのように暖かい力になって心の靄が晴れるなら。
それは、愛だ、と思えた。
「……っていう残念な結果に」
「その割にはあんた堪えてないわね」
日野家の長女、香穂子の姉の部屋で今日の報告をしていた。
「うんまぁ…。予想してたし。
了承された方が何かありそうだし」
長期戦にするしかないかなぁと思った矢先にインターホンが鳴り香穂子は思わず姉と顔を見合わせた。
今はもう九時を周っている。
姉の部屋の窓から外を覗くと最早見慣れた黒塗りの車。
だが香穂子はその身を強張らせた。
まず、運転手が違う。
柚木の運転手は寡黙ではあるが優しい雰囲気の男の人だ。
それよりも息を呑んだのは来訪者が先ほど「対峙」の形を取った柚木の祖母。
「香穂……」
「大丈夫だよ。幾らなんでも取って食われるなんてことないし」
ぱっと身を翻して香穂子は玄関へ急いだ。
その背を見届けてて思う。
あんたならもっと順風満帆に誰かと添い遂げることが出来るよと、言いたかった。
だけれど言わなくて良かったと思う。
言っていれば自尊心を傷つけた。
今後、この事で立ち直れないほど傷つくのならそれくらいの悪役は幾らでも買う。
その時は母親も父親も、友人だっているのだから。
だけれど、きっと今自分が聞いたよりも中傷されただろう香穂子本人が、隣りにいるあの大人びた男の子と一緒に前を見ている。
いつの間にか強くなった妹がもし挫けることがあれば、してやるのは叱咤激励だ。
「えっとこんばんは…」
「今晩和。…先ほどはどうも」
「どうも……。あの、寒くないですか?何なら中…」
「いえ結構」
冷たく拒絶されたにも関わらず香穂子は笑ってショールを差し出した。
「言うと思いました。でもこれどうぞ」
もう一度拒絶しようとした瞬間に冷えた風が一陣、香穂子と柚木の祖母の間を切り裂いた。
「どうぞ」
香穂子から受けとった柔らかい生地のショールを肩にかけ昼間から乱れることのない銀髪は月光を跳ね返した。
「有り難いですが話は別です。どうしても梓馬さんと別れる気はないのですか」
「それだけは、出来ません」
は、と目の前のひとは嘆息した。
「あなたが、家を大切にしているのは分かっています。
でも……梓馬さんがあたしをすきだって言ってくれてるうちは嫌です」
そっと伏せられた長い睫毛が街灯に照らされ長く影を作った。
「あたし、なんだってします。…認めて貰えるなら頑張ります」
だから、と言いかけた香穂子の髪を冷えた風がなぶる。
ふ、と祖母の意志が強い瞳が揺らめいた。
「……二人で逃げるなんてこと、考えないわけなかったのでしょう?」
真っ直ぐ見つめるまなざしに香穂子は苦く笑った。
「ほんとはそういう話はしましたけど。…やっぱり他でもない梓馬さんのお祖母さんですもん」
いっそ馬鹿なのかと思うほどの真っ直ぐさは正直納得出来ない。
何故もっと上手く立ち回れないものかと苛々する。
何よりも一般中流家庭の育ちは、自分が心血注いで大事にしてきた柚木との内縁に相応しくないと思う。
だけれどこの少女も、自分と同じくらい頑固なのだろう。
どれだけ罵倒しても、瞳の色は変わらない。
「肩書きとか、そういうのが要るなら、プロのヴァイオリニスト、とかじゃ駄目ですか?
頑張って、胸張れるくらいのヴァイオリニストになりますからっ」
「あなた、それだけで柚木に嫁げるとでも?」
冷然と放たれ流石に香穂子は怯んだ。
「で、でもあたしが出来ることって……」
ええ?と考え込む香穂子を見、無意識に苦笑を洩らした。
くるくると変わる表情はまるで子ども。
微かに、本当に微かに暖かいものが柚木の祖母の胸を掠めた。
「出来る以上のことしなさいと言っているのです。明日から、うちに来なさい」
肩にかけていたショールを取り払い、いまいち状況の変化が飲み込めない香穂子へ返し車へ向かう。
そして一度立ち止まり肩越しに振り返った。
「……まず正座に慣れることから始めなさい」
「は……っい…!はいっ」
ぱぁっと輝くほどに笑顔になった香穂子を見ることなく黒塗りの車へ消えた。
「……―――っ」
その車が同じ色の景色へ融けたのを見届けると片足を軸に大きく体を回転させ自室へ急いで戻った。
そして転がっていた携帯を掴むと発信履歴から「柚木梓馬」の名前のところで通話ボタンを押す。
呼び出し音をもどかしく思いながら焦れながら出るのを待つ。
『香穂子?』
当たり前になったその出方に、喜びの拍車がかかる。
「梓馬さんっ!あたしに「好き」って言ってください!」
『は?どうしたの藪から棒に』
「あたし、頑張れますから!」
『香穂子落ち着け』
興奮した様子で話す香穂子に柚木が宥めようとするが香穂子の耳に、その言葉は意味として届かない。
苦笑して、柚木は聞くことに徹しようと思った。
「あのね、さっき梓馬さんのお祖母さんがウチに来たんですっ」
『な…っ』
強張った声で祖母の行動を訝しった柚木の考えを否定するように柔らかい声音で微笑んだ。
「ねぇ梓馬さん、あたしに「好き」って言ってください。
そしたらあたし、梓馬さんに相応しくなれるよう頑張れますから…っ」
先刻の言葉を繰り返した香穂子に柚木は苦笑した。
同時に感嘆する。
あの祖母が、香穂子を認めようと動いたのだ。
技術も知識も何もかもが追付かないままヴァイオリンを弾いていたあの頃から変わること無く、その音色が誰かの心を動かすように、彼女そのものが何かを変える。
矜持が高いひとだから、何かきっかけがないとそうすることが出来ない。
その感嘆は苦笑と重なって微かに吐息を洩らしたに過ぎなかった。
『好きだよ、香穂子』
どうせならその染まっていく頬を見ながら言いたいが、柄に無く熱い自分の顔を見られる訳にもいかない。
『そうやって、一番良い結果のために頑張ってるお前が愛しい』
優しい声音。
意地悪な一面以上に、香穂子にしか見せない、多色ある柚木の素顔。
『相応しく、なんて言うな。
おれは香穂子らしい香穂子を、愛してるよ』
柚木には見えないが、柚木の想像に違わず顔を赤くした香穂子が思わず息を詰めた。
『……満足した?』
「……怖いくらい満足しました…」
照れからお互い黙りこくって、不意に香穂子があっと声をあげた。
「こういう時、一緒に住めたらすぐに抱き付けたんですね」
照れくさくて、少し小さい声で言う香穂子。
柚木はその声を、胸に沸いた愛しさを、唇に想いを込めて香穂子と同じ場所に光る指輪に、口接けを落とした。
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