柚木の価値観の比重。
「あんなの、捨て置け」
十の眼が、自分を睥睨している。
その目が黙然としている口よりも如実に言いたいことを伝える。
香穂子は目は口ほどに物を言う、という諺を思い出したが使用法は間違っている。
はあ、と香穂子は気付かれないよう、溜め息を吐いた。
もう幾度、自他ともに決めたかどうか定かでもない親衛隊に呼び出されただろう。
一対一なら渡り合えるものを、大勢で寄ってたかるから手に負えない。
一度追い返したところで、大勢で赤信号を渡るかの如く際限なく彼女らは来る。
それに、ひとりで来たなら自分もこんな斜に構えた気持ちにはならない。
「分不相応ってコトバ知らないのかしら?」
「教養も素養もないあなかたが、柚木さまと付き合うだなんて茶番でしょう?」
五人は香穂子を半円に取り囲み、そのうち香穂子に一番近い二人が口を開いた。
疑問系にするのは自分から「是」を聞きたいのだろうか。
だが香穂子がしたのは「是」も「非」もなくただ剣呑に視線を向けた。
「なあに、その目」
「あたしたちが間違ってるとでも?」
彼女たちの言い分は概ね間違っていないとは思う。
だがそれは彼女らの行動を肯定するのではなく、他でもない柚木がそう振る舞ったからだ。
それに想い合うことに関してはそんなもの無に帰してしまう。
それを伝えるのも馬鹿馬鹿しい。
「日野……?」
良く知った声が香穂子と彼女らを包む険悪な空気を打ち破った。
踊り場から視線を落とすと、視線を据えて睨みあげている土浦と加地がいた。
屋上で談笑する予定だったのだろう、手に紙パックのジュースがある。
「ちょっと卑怯なんじゃないの?」
加地の空色の瞳に険しさが混色される。
だが距離があるために間近であれば押し黙った筈の彼女らは一瞬怯んだものの、直ぐに持ち直して嘲笑混じりの笑みを向けた。
「あら、あたくしたちは教えて差し上げてるのよ」
「付き合うのに分不相応もくそもねぇだろうが」
「そうかしら」
ぴしゃりと返す先輩女子生徒に、普段は気にする上下関係も一切取っ払い本気で睨んだ。
だがやはり距離はどうしようもなかった。
く、と口角を上げた印象そのままに女は狡猾だ。
彼らがどれだけ睨み付けても決して手を上げれないことを知っている。
「柚木さまがこんな娘に本気になるわけないでしょう?
…何だか可哀相で。
どのみち卒業までのお付き合いで、可愛い後輩が傷つく、だなんて」
くすくすと忍び笑いが聞こえる。
きり、と土浦と加地の眉がつり上がる。
「………い、」
ぽつりとずっと口を閉ざしていた香穂子が微かに発した掠れた声は自棄に響いた。
きっと顔を上げると目一杯に睨み付け声を荒げた。
「梓馬さんはそんないい加減なひとじゃないっ!
あんたたちに梓馬さんをそうやって言われる言われはないっ」
言い切った一瞬後しん、とその場が静まった。
だがみるみるうち、彼女らの顔色が怒気に包まれる。
言う通り生まれ育った環境や家柄、嗜んでいるもので付き合う女を決めていたら男として最低だ。
だが、香穂子が付き合わなければ、いなければ、そうやって言うこともなかった。
何よりも、人前では「柚木先輩」と呼ぶ香穂子が怒りで真っ白な頭で怒鳴ったために、
「梓馬さん」と呼んだことが腹立たしい。
失言に対する恥は香穂子への憎悪に擦り変わる。
「…っ!この……っ」
手を振り上げたことに半歩香穂子は後ろに引いたが、睨み付けた視線は逸らさない。
「日野っ」
「日野さん!」
呆気に取られ、取り巻きの首謀格の生徒が香穂子に手を上げるより一瞬遅れた。
元々距離は開いている。
加え香穂子は階段に背を向けるように立っている。
万が一この向きで階段から転落、ということは何があっても避けたい。
一段抜かして駆け上がり出来るだけ距離を詰める。
「何を、しているの?」
勢い良く腕が振り下ろされる直前、柚木の声が掛かった。
口調はいつもと変わらない。
だが、声音と瞳には底冷えする色が垣間見えた。
だがそれを一瞬で打ち消し、柚木は再度呆気に取られた土浦と加地の横を擦り抜け階段を上り、香穂子と親衛隊の間に体を滑り込ませた。
更に足場が悪くなった香穂子は柚木に腕を支えられながらそろりと数段降りて漸く足場が安定する。
少しだけ顔をずらし、柚木は香穂子に視線を向ける。
身長差に加え段差があるため殆ど見下ろしている。
「探したんだよ、香穂」
常よりも微かに甘さが含んだ声音。
香穂子は微かに眉を寄せた。
「すみません…」
ざっと音を立てるほどに蒼褪めた少女の様子に気付かない振りで困ったように視線を落とした。
「僕の見間違いでなければ、彼女手を上げるように見えたけれど…?」
「それは…っ」
振り上げたまま硬直した手がかたかたと震えている。
「僕の大切なひとだから、仲良くしてあげてね?」
にこりと微笑して、階段を降りるよう香穂子を促す。
「え、とごめんね?助け船出してくれてありがと」
柚木の強引なまでの幕の引き方に三度呆然としている土浦と加地に謝った香穂子は、二人が微苦笑ともつかない笑い方で許したのを確認した。
傍目にはわからないが強く手を握った柚木に引かれるがままに後をついて歩いた。
「梓馬さん?」
「………」
幾ら呼び掛けても返るのは沈黙ばかりで、黙々と進む。
柚木が立ち止まり引き開けたのは保健室の扉。
ベッドに座らせ、カーテンを勢い良く引いた。
振り返るとぎゅ、と香穂子を抱き締めた。
「あんなの、捨て置け」
「え?」
「あんなことで、あいつらを煽るな」
腕に力が籠った。
柚木に関して怒ったことを指しているのだと気付いた。
その背に、香穂子はゆるゆると手を回す。
「無理ですよ。自分のことより耐えれないくらい末期ですもん」
柚木は嘆息した。
嬉しくないのではない。
むしろその想いは嬉しい。
だが、それでは洒落にならない場合もあるのだ。
「言いたくはないが、あいつらがいたから問題無かったが、いつでも助けが入るとは限らないだろう」
「………」
「擦り傷程度で済んだら良い。
だが、酷いものになったらどうする?傷が残ったら?
お前は女だろ。ヴァイオリンだってある」
過保護に聞こえる気がする。
だが、柚木にとって大切なものは数える程度だ。
だから、過剰反応する。
香穂子が自分の周りのせいで傷つくことと、それによって香穂子が離れることが、怖い。
だが香穂子には確信があった。
「あたしは傷が残るのは怖くないです」
それよりも、この抱き締めてくれるひとが、人間としても男としても最下層に言われるこ
とが耐えられない。
傷つくことが耐えれない。
たとえ、自分を傷つけることだけが目的だったとしても、だ。
「梓馬さんは、そうやって残った傷ごと、あたしを愛してくれるでしょう?
諦めてください、そういう女を選んだんですから」
どれだけ傷ついても柚木の不安は杞憂でしかない。
離れる?どうやって?
もう離れ方すらわからないのに。
肩に手を置いたまま柚木は体を話し目をしばたたかせ、香穂子を見た。
あ、可愛い、などと思うのだから自分も相当末期だ。
「お前は…」
くしゃりと愛しそうに柚木が微笑する。
「おれが大切なモノに勝手に傷つけて良いと思う?」
科白よりも声音は柔らかい。
いつもは見上げてる琥珀の瞳はベッドに座っている香穂子に合わせ、極至近距離だ。
吐息すらかかるこの距離では香穂子の視界には柚木しかいない。
それを柚木が望んで無言で強烈な独占欲を向けられているようで、言い様のない幸福感が胸を満たす。
「知りませんよ。梓馬さんの監督不行届じゃないですか」
目線を下げられた、それだけで内心嬉しさが止まないのが悔しくて言ってみたが、自分でもわかるほど声色は甘ったるい。
柚木はそう、と呟くと、ちゅ、と音を立てて香穂子の唇に笑みを佩いた唇を押し当てた。
「精々名前書いて、身につけててやろうか?」
もう一度キスをしようとその美貌を近付ける柚木に応える為、柚木の独占欲塗れの提案に是を含めて、瞼を閉じた。
是以外に、答える訳がない。
柚木の側にいてつけられた傷は、代え難く愛しいものになる。
「是非そうしててください」
PR