「恋花百科事典」さまにて展示させていただいてました。
「誰かさんは御不満みたいだけどな」
「楽しいか?」
学校の帰り道。
常ならば柚木の車で帰宅するが、家のことでそれが叶わなくなった。
ならばと香穂子の家のまで歩き、そこからまで出向いて用事をこなしている家族とその車に拾って貰うことになった。
ここぞとばかりに遠回りの道を歩いて、出来るだけ時間を引き伸ばして。
二人を占めるのは、静寂の中にある靴音のみ。
「とっても」
「物好き」
香穂子との沈黙が苦な訳ではないが、思わず一蹴した。
だが香穂子は素知らぬ顔でまた歩き出す。
それを見、すっと柚木の瞳が細くなる。
ただ歩いていると一番の懸念が柚木の思考を掠めた。
「このまま、」
普段は柔らかい印象になるようにと上げている声音。
気遣うことなく発した低いトーンのその言葉は靴音に紛れそうだが、香穂子の耳には届いた。
「夜が明けなかったら良いのにな」
香穂子の肩が時折触れる腕に存在を感じながら歩いて、月光を頼りに姿を捉えて。
月光が足りなければ、それすら要らないくらい近付けば良い。
懸念の渦中は家。
今まさに帰らんとしている場所。
憎いかと聞かれれば否と即答出来るが、疎ましいのは確か。
逃れることが出来るなら、明けない夜でも良いと思った。
「何かありましたか?」
「別に」
穏やかに笑みすら含んだ声音が今は気に入らなくて、強引に香穂子の手を取って少し強めに手を握り、歩を速めた。
「わゎ、ちょ、梓馬さんっ」
香穂子は慌てて速度を合わせる。
自分が言ったことを思い返して、言葉が足りなかったなと反省した。
「夜が明けないってことはずっと夜ですよね」
「そうだな。こうやって二人で。誰かさんは御不満みたいだけどな」
明らかに機嫌を損ねてしまったらしい。
「だ、だって…梓馬さんと色んな景色見るの、好きなんですよ」
朝日の光を受ける並木。
煌々と太陽が全てを照らす様を一望する屋上から見える景色と、少し遠くできらきらと光を弾いている海。
夕暮れは昼の青と、暮れの朱、宵の藍の全てを映して少し切なく感じる正門。
様々な色を見せても丸一年通えば見慣れていく。
だけれど香穂子は柚木と歩くことで、その世界が特別に輝いた。
「だから、見てください」
見上げた先は藍墨の空に零れるほどの満天の星空と仄白く浮かぶ満月。
「星空だけが、先輩と見れなかったんです」
いつか。
もうずっと以前に、後退は勿論前進することすら許されない自分の生涯を月の無い夜だと自嘲したことが、あった。
月が無くても星は瞬いていると教えてくれたのは紛れも無く香穂子だ。
だがその香穂子自身が、自分の果てしなく続く夜に暁をもたらした。
「…そんなこと、言えば幾らでも叶えてやるよ」
自分でもわかるほどに穏やかに笑った。
塗り固めて、無理矢理筋肉を動かすのではなく極自然に。
自分がそうやって笑えることを知ったのもやはり香穂子のお陰だ。
「じゃあ…ちょっと欲張って良いですか?」
「言ってごらん。今は機嫌が良い」
「えと……今度の休日、あたしと出かけてください」
駄目ですか?と上目遣いで恐る恐る聞いてくる香穂子がなんだかおかしい。
「全く。バカだねお前」
今なら何だって与えたいと努力してやるのに。
「だが同じくらい、可愛いよ」
空いている片手で香穂子の頬を撫ぜながら、思う。
いつか、果てることはないと思った夜が明ける様を、香穂子と見たい。
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