夕方の公園で鬼ごっこ。
アンコール前提での2の頃。
「っ、日野!」
昼休みに香穂子から、みんな都合がつかないから今日は各自で練習してね、とメールが届き、月森は練習室へ赴いた。
が、練習室は予約で一杯で、外で練習するにも雑音が気になって集中ができない。
その為、防音設備があることもあり、自宅で練習しようと帰路についていた。
慣れた町並みが、歩く速さに合わせて過ぎていく。
いつもと何かが変わる訳でもないその景色の中にある公園で、足を止めた。
数人の子供の足音と高い笑声が聞こえる。
ただ見やっただけだが、ふと気付いたときに自分がほんの少し笑っていたことに気付いて、口許を確めるように指先でなぞる。
(公園にいる子供なんて気に止めることなんてなかったのにな)
自分に苦笑した。
長い間、ひとりの世界でいたのに、たったひとり、たった数か月で。
苦笑を微笑に変え、少し回り道をしようと公園へと入った。
ザリ、とコンクリートと感触の違う砂地を踏み、慣れない景色にぐるりと視線を巡らせる。
見慣れないその中で、唯一見慣れたものがポツンと映り込んだ。
「っ、日野!」
まさか居るとは思わず、驚いたせいで思考が空転し、舌を縺れさせながら半ば叫ぶように名前を呼んだ。
ベンチに座って何かを読んでいたらしく、膝元に視線を向けていた香穂子は、俯いていたせいで落ちた髪を耳に梳きやりながら顔をあげた。
「―――月森くん!」
ぱ、と笑って小さく手を振った。
それを視線で受け、少し足早に香穂子が座るベンチへと近付いた。
「日野、どうかしたのか?」
「今日練習休みって言ったでしょ?時間が余っちゃったから、他のパートをさらってみようかと思って」
香穂子は思い切り伸びをして、強張った体を解す。
「お天気もいいし、家でやるの勿体ないなぁって」
夕方にさしかかる前の透き通る空を仰いで、香穂子は眩しそうに瞳を細めた。
つられて月森が空を仰ごうとしたその時、ばたばたと足音がすぐ近くで聞こえた。
「っ、?!」
声はあげなかったが、なにかが月森と香穂子の間を通り抜けようとし、ぶつかった香穂子がつんのめった。
さっと手を差し出したが、衝撃も弱く月森の腕は支えるよりも体勢を整える役割を果たした。
「――ごめんなさいっ」
息を切らせた男の子が振り返り、香穂子と月森を見上げていた。
「あっ」
視線を香穂子たちよりも後ろに滑らせ、小さく声を上げた。
それにふいと視線を滑らせた香穂子は得心いった顔で笑った。
「大丈夫。気をつけてね」
丁度そのとき後ろにいた子供が彼に気付き、走って来た。
「わわわっ有り難うお姉ちゃん!」
ぱたぱたと逆へと逃げ去って後ろ姿が小さくなったころ、月森が不思議そうな顔をしていた。
「よく、わかったな……」
「なにが?」
「鬼ごっこをしていたのだろう?……何故あんなに慌てているのかと思った」
全速力で走り回って、辛いはずなのにあちこちで笑声が聞こえる。
走り回る子供を見ながら、自分を重ねる。
その頃からヴァイオリンばかりしていた子供時代は後悔していない。
あの頃があるから、今の自分がいる。
後悔はしていない。
していないけれど、思い出すときに楽しかった思い出、というものの少なさに苦笑しか沸かない。
それが「寂しい」ということだと知ったのも、最近の話。
ヴァイオリンケースを持つ手に力を込めた月森の手を、一回り以上小さい香穂子の手が添えるように握った。
「……日野…?」
香穂子の手の動きに合せて開いた手からヴァイオリンケースを取り、ゆっくりとベンチに置きっ放しの楽譜の上に置いた。
「いち、にぃ、さん、し……」
にこにことカウントを始める香穂子を月森は訝った。
「日野?」
「ご、ろく、なな、はち……」
呼んでも答えず、歌うようなカウントは進んでいく。
「きゅーう」
「日野、何を…」
「じゅう!」
終わりの合図のように一層軽やかに数字を告げた。
そして挨拶するように軽く上げた香穂子の掌が月森の肩口に触れる。
「はい、ターッチ」
「は?」
「だから、鬼ごっこ。私タッチしたから月森くん鬼ね!」
あははと笑って自分から離れる香穂子に月森は呆然とした。
「なっい、今のは狡くないか! いや、それよりもおれはやるなんて……」
「私やりたいから付き合って、ね、月森くん!」
砂地をローファーで走るのは、と一瞬、思ったけれど。
「あっ帰っちゃ駄目だよ!ちゃんと鬼やってね!」
その科白が終る前に、月森は地面を蹴った。
子供よりも男女差が開く為、体力や足の速さは当然月森が勝るが、香穂子に触れる直前でひらりとその体が翻る。
香穂子は逃げるカンを取り戻せばいいが、月森はそうもいかない。
「おーにさんっこっちら!」
「は……っおちょくっているのかっ」
勝負はほぼ五分五分だが、小一時間走り回って体力の限界がきたのは、香穂子だった。
「は…は……っはぁ…っあーこんっな走ったの久し振り!」
「な…何故君はあんなひらひらしているんだ……っ」
月森は肩で息をしながら、自分の言ったことがなんだかおかしい気がしたが、酸素が足りていない頭ではもうわからない。
「ね、月森くん」
運動して爽快な笑顔を見せた香穂子は大きく腕を広げた。
「凄くない?秋だから、夕焼けすっごく綺麗!」
淡い蒼、よりも薄い紫に近い空は段々と濃さを増し、朱に似た橙の太陽は今日最後の大仕事とばかりに輝きを増して、白い筈の雲をその色に染め上げる。
夕焼けが染めるのは世界と、香穂子。
蝦茶の髪は朱さが濃くなり、きらきらと反射する。
晃々と燃える太陽が織り成す絵画のような世界と、その世界を抱いて真綿の柔らかさで微笑う香穂子と、そのどちらに見とれたかわからなくて月森はくらりと軽い眩暈を感じた。
「ね、こんな夕焼け見たら、高校生になってまで鬼ごっこしたことなんて、忘れないでしょ?」
どきりとした。
彼女は、近い将来自分が離れることを知ったらなんて言うだろうか?
寂しいと、ほんの少しだけでも思ってくれたらいい。
まだ、眩暈と共に訪れた泣き出したくなる切なさの意味を知るまでは言えないけれど。
「……なら、君のことも忘れないな」
ぽつりと転がった呟きは小さすぎて、香穂子には届かなかった。
いつか会えなくなる日々が来ても、空が覚えている。
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