志水の男としての沽券?
「違うんです…あの、」
見た瞬間、動けなくなってしまった。
チェロを抱えたまま、鞄を担いだまま、読んでいた本から視線を上げて。
今映るのは、文字の羅列ではなく、志水の二つ上の、同じ科の火原と、一つ上の、普通
科の
「香、穂先輩……?」
火原のこぐ自転車の後ろには、膝から血を滲ませる香穂子。
火原のお腹のあたりに腕を回して申し訳なさそうにする香穂子に、火原は気遣うように話しかけていた。
見えたのは一瞬。
縛られたのは永遠。
血を流す貴女は心配だけれど、気になるのは回された腕。
そんな事言ったら、貴女は呆れますか?
「おっはよ志水くん!」
「………おはようございます…」
翌朝、帰り道に見た光景が頭から離れずぐるぐると考えてしまい、落ちるように眠ったのは殆ど夜明け。
眠る最後に聞いたのは、耳が痛いほどの静寂ではなく、鳥の鳴き声。
眠そうな眼差しを覗き込んだ香穂子はくすりと笑った。
「またチェロ弾いてたの?」
「いえ…あ、はい」
咄嗟に吐いてしまったたどたどしい嘘に気づかない香穂子はもう一度笑った。
「しっかり起きて?」
言いながら香穂子は頭を撫でようとした。
「っ!」
「えっ?」
びくり、と身を竦ませた志水の行動に香穂子も動きを止めた。
「あ……」
「あっごんね?そうだよね、高校生の男の子が頭撫でられても嬉しくないよね」
出しかけた手を耳元にやって、乱れてもいない髪を直した。
「違うんです…あの、」
「ううんっあたしが悪かったの。……もう行くね?」
予鈴すら鳴りそうにない時間を告げる時計を掲げる校舎に向かって、香穂子は人ごみを縫って駆け出した。
「………っ」
何故こうなのだろう。
土浦先輩なら走ってもすぐに腕を伸ばして掴ませられる。
柚木先輩ならそもそも頭を撫でられる事もない。
火原先輩なら。
「火、原せんぱい……?」
名前を音にした途端、視界が揺らぐ感覚と一緒に思い出した。
そうだ。香穂先輩は。
「………先輩っ!」
悪いな、とは思っても、チェロケースや体にぶつかる人を気に留める事が出来ない。
それでも足を止めず、志水は香穂子を追った。
「きゃ……」
志水の視界に映った香穂子は、足の怪我が急な運動に痛みが拍車をかけ、体の安定を無くした。
「香穂先輩っ!!」
思わず伸ばした腕の中には支える事の出来た香穂子の体。
勢いがあった為に、少し志水の体は傾いだが、微かに揺らいだ程度。
流石に片手のチェロを投げ出す事は出来ず、香穂子を支えるのは腕一本だけ。
「怪我してるのに走るからですよ」
「う………ん。ごめんね…?」
「痛くないですか?」
一瞬、思い切りこける覚悟をした香穂子は、その覚悟した衝撃が無かったことににも、志水が追いかけたことにも、何より志水が腕一本で自分の体を支えている事にも、転倒とは違う衝撃を受けていた。
冷めない衝撃の中、香穂子は思う。
わかってなかった。
さっき、何を言っているのかわからなくなるほど解った筈なのに、なのに今度は人目を忘れるほど、思い知らされた。
「…本当に、大丈夫ですか?」
いつまでも反応のない、体勢すら整わない香穂子に釘を傾げた志水が見下ろした。
「うんっありがとうっ。…びっくりしたの」
香穂子は志水が腕で支えた事を指して言ったが、志水は別の意味に捉えた。
「じゃあ、もう転ばないように怪我が治るまで僕が行きと帰り、先輩の教室まで行きますから」
言うなり、香穂子の承諾を得ないまま、香穂子の手を取って歩き出した。
「えっ?わ……っ志水くんっ?!」
叫び声に近い香穂子の声を半分だけ聞きながら志水は歩き出した。
香穂子の柔らかい指の感触を感じながら、笑顔を浮かべて。
まだ、香穂先輩を乗せて自転車は無理だけれど。
僕には、僕のやり方で、香穂先輩を守れるんだ。
個々が紡ぐ、弦の調べのように、僕だけのかたち。
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