「7つの恋の話」さまに寄贈しました。
志水が願うもの。
「何お前。気持ち悪い」
昨日は森の広場。
その前は屋上。
いつも違う場所から響く、貴女の音。
他のヴァイオリンと、聞き分けることが出来るのに、それを見つけるまで、この世界は無彩色。
「あそこの窓、直したほうが良いよなぁ」
「んまあそのうち金やんにでも……」
教室で転寝していた志水は不意に目が醒めた。
まだ意識に靄は懸かっているが、有無を確認できる程度に、意識がはっきりしている。
だが志水はそれを無理矢理起こすため、背筋を伸ばした。
「おう、志水、起きたか」
近くで話していた男子生徒が志水に気付いて声をかけた。
だが夢現の眼は彼を映さず、ひたすら音を手繰っていた。
「音……」
「ん?そういや。ヴァイオリンだな、これ」
教室の喧騒では掻き消されそうなほどか細い、高く低い音。
「先輩……」
志水につられて音を手繰りだした彼は志水の呟きに眉を顰めた。
確かに上手いし、この音の源が上級生である可能性はある。
だが、交流範囲が極端に狭い彼の言う先輩とは。
真っ先に出たのは、コンクール出場者優勝候補のヴァイオリン一家の御曹司の、サラブレッド。
「お前、先輩ったって月森先輩は違うだろこれ……って志水?」
見えたのは色素の薄い髪がドアに遮られる瞬間。
そうして過ぎる、何かと話題のもう一人のコンクールでのヴァイオリン奏者。
思い切り下世話に笑った。
「何お前。気持ち悪い」
「ウチのホープはダークホースにご執心か」
「はあ?」
意味もわからず上品からかけ離れた笑みを浮かべながら訳のわからないことを言い出す彼から、彼の誘引は思い切り距離を取った。
が、それを大股で取り返した。
「うわ」
「なあ、トトカルチョの趣旨変えね?」
もっと近いところで聞きたくて、教室を飛び出したのに、一向に辿り着かない。
屋上、エントランスにも、森の広場へも行った。
悉く途中で遠ざかり、正門前へ向かうときに至っては着く前に遠くなり、聞こえなくなる前に引き返した。
音楽室や講堂の防音設備はオケ部が使うほど完璧であるし、練習室もまた然り。
こんなに姿が見つからないことはなかった。
音は聞こえているのに、姿だけが見えない。
あの、音が好きだと思った。
ならば、とふと思う。
ならば何故、今此処で座り込もうとは思わないんだろうか。
音なら気をつけて慎重に辿れば良い。
決して体力に自信があるわけではないのだから。
なのに、何故弾き手が見えないだけで、こうも不安感が強いのだろう。
当ても無く校舎裏へと周ると、微かだった音が強くなった。
驚いて弾かれるように見ると、丁度練習室の真下にいるようだった。
窓は全部閉まっている。
否、違う。
一部屋だけ立て付けが悪いのか、僅かにガラス越しよりクリアに中が見える。
起き抜けのクラスメイトの会話を思い出した。
「………ッ」
あの音を聞いていたい。
違う。
違う、それだけじゃ。
「……っ、け、ほっ」
全力疾走した直後特有の、鉄錆の味に似たものを咳き込んでやり過ごす。
こん、と小気味良くドアを打ち鳴らした。
流れていた音が止まり、数秒あとにドアが開いた。
「せ……ぱ、い…」
「えっ、志水くんっ?!」
入って、と促されてそれに従う。
差し出されたペットボトルのお茶を断って、香穂子の手を握った。
「し、」
「気付かないうちに、願っていたことがあるんです」
いつもは少しだけ低い位置にある香穂子の顔。
まだ荒い呼吸をやり過ごすために少しだけ前屈みになっている所為で志水が僅かに低い。
「先輩の音が欲しいと願ってしまうのは、罪ですか?」
一回り近く小さい手が志水の手の中でぴくんと跳ねた。
走った所為で潤みがちな瞳を伏せ、ゆっくりと持ち上げた。
「先輩と、先輩の音が欲しいんです」
アクアマリンの瞳が、香穂子を捉える。
香穂子は揺れる瞳を伏せて頬を俄かに染めた。
「待…って志水くん、それ……」
震える香穂子の手を志水はしっかりと握る。
「告白にしか、聞こえないよ……」
握っていた眉尻を下げて言う香穂子の手を引いて、抱きしめる。
だから、音だけではなかった。
香穂子と、香穂子の音に恋をしたから。
音だけでは、足りない。
「嫌なら突き飛ばしてください」
志水の体格ではまだ閉じ込めるように抱きしめるのは叶わない。
然して力も込めていないから、香穂子の力で逃れる術は幾らでもある。
「志水くんの罪は、同罪のあたしと合わせて無しにしようよ」
ゆるゆると背中に回された腕を感じながら、自然と頬が緩むのがわかった。
瞳を伏せる一瞬に見えたのは、仄かに色付き始めたパステルカラーの世界。
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