ウィーンに経った月森と香穂子の距離。
アンコールネタバレ注意。
「僕なら良かったのに」
「また、いつか」
一瞬、笑えた気がしなかった。
それまでも怪しいものだったけれど、競り上がる涙を堪えていたけれど。
無理矢理笑って、でも答えずに、ただ手を振った。
彼が、月森が背を向けて、歩き出す。
人込みに紛れても、一度背を向けた彼が、振り向かないと知っていても。
搭乗口へ行くため、奥へ吸い込まれていったのを確認し、手を下ろす。
同時に堪え切れなくなった涙も散るように落ちた。
(なんで…)
なんで、どうして、彼は。
桜が満開になった頃。
香穂子は最高学年に進級し、土浦共々音楽科へ転科した。
二年過ごした普通科での卒業もしたかったけれど、級友の彼等は目にものを見せて蹴散らして来いとばかりに送り出してくれた。
入学したての一年生と同じように糊の効いた制服を見下ろし、普通科として最後の日を思いだし、少し泣きそうな微苦笑を浮かべた。
泣きそうになり―――――本来は同じクラスになるかも知れなかった恋人を思いだし、その恋人との別れも思い出して、頭を振った。
やり過ごすため、ゆっくりと息を吐いた。
(頑張らないと…)
「お、日野」
爽快な笑みを浮かべ片手を上げて挨拶代わりにし、土浦が近付いてきた。
「どうだ?最上級生と音楽科」
「最上級生は自覚ないからどうにもならないけど、音楽科は一杯一杯……」
「筆記は弾けるだけじゃどうにもならないからな」
苦笑してくしゃくしゃと頭を撫でた。
だが、本当に苦笑したのは香穂子だ。
勉強も確かに一杯一杯だが、何より余裕を無くしているのは。
(月森くん……)
知り合って一年経たない。
知り合って、仲良くなって、恋をして、応えてくれて。
……離れて、しまった。
「……ん、でも、頑張るよ」
「日、」
「あ、森さんにね、わかんないとこ教えて貰う約束あるから行くね?」
普通科よりも長い、音楽科の制服を翻して香穂子は踵を返した。
土浦は小さく嘆息した。
その吐息は、喧騒に掻き消された。
「あっ土浦!」
やや高さを感じる、もうすっかり慣れた声に呼ばれた土浦はさっきとは違った苦笑気味に振り向いた。
「加地。珍しいな」
事情くらいあるだろうと放って置いてたが、香穂子が絡んだアンサンブル以外で人前での演奏を避けたがっていた加地が音楽科の棟へ来ることはもう珍しくなっていた。
「うん?だってここじゃなくても練習場所なは事欠かないし、学校なら森の広場の奥行けば良いじゃない」
わざわざ奥へ行って演奏するような腕でもないが、転校当初から音楽的自己評価は限り無く辛い。
言ってやっても良いが、ただのお節介であり、加地は信じない。
土浦はとりあえず溜め息を吐いた。
「それよりさっきの、日野さんだよね」
「ん?ああ…あいつなら今から勉強だぞ」
「ふぅん。頑張ってるみたいだね」
香穂子が消えた方向を困ったような…愛しそうな表情で見遣る加地に、土浦は何とも言えない気持ちになった。
加地の、香穂子への好意は周知だけれど。
「加地」
加地の視線は揺るがない。
「お前、日野のことどう思ってる?」
ゆっくりと加地の視線が外され、土浦を見る。
その伏せられた瞼があがる、一瞬。
深い海の色をした瞳が、深夜に見るそれのように吸い込まれると言うよりも引きずり込まれそうな闇い色を宿した。
が、錯覚のような一瞬後、いつもの加地に戻った。
「すきだよ」
いつものように答えた加地に、土浦は舌打ちしたくなった。
「だから、」
「すきだよ。月森や――――土浦と、同じように」
ひくりと土浦が瞬いた。
「なん、」
「すきだから、笑ってて欲しい」
彼女が本当に微笑んだのは、土浦にとっていけ好かない男。
人柄が合わないから、認めざるを得ない実力すら厭わしいが、香穂子が幸せならそれでよかった。
気持ちを伝えて、気に病ませることのほうが厭わしい。
なのに。
「僕なら良かったのに」
ぽつりと、加地が呟いた。
見れば、一度土浦に合わせた視線は、香穂子が見えない廊下。
「僕なら、離れたりしないのに」
香穂子と想いを繋げたまま、海を渡った月森。
それでも、誰よりも何よりも欲しい彼女が求めるのは、彼ひとりなのだ。
ジリリリと低いベルが鳴った。
丁度帰宅した月森が上着や防寒具を取りながら受話器を取った。
「…もしもし」
「やあ、久し振りだね」
「……加地?」
胡乱気に確信を持って訪ねる月森に加地は笑った。
「当たり。忘れてたらどうしようかと思った」
悪戯な響きを滲ませた軽口に月森は眉を顰めた。
「なにか?」
「やだな、留学した戦友を心配したとは思わない?」
「……君はそんな殊勝ではなかったと思うが」
「酷いなあ」
くすくすと笑う加地に毒気を抜かれ、入れすぎていた力が抜けるのを感じた。
「……元気、か?」
誰が、を敢えて抜いた。
自分へ尋ねたと思っても構わなかったが、加地は正確に理解した。
「元気だよ。毎日学校でヴァイオリンを弾いてる」
「そうか…」
「でも音が変わったよ。…多分僕しか気付かないくらいだけど」
加地の良過ぎる耳が成せたことと、月森がいれば変わる必要が無かったことを指して。
言葉が出てこず、ただ押し黙った。
「…月森のその言葉の無駄を省いて素直に態度に出しちゃうとこ、僕はそれなりに好きだよ」
「………は?」
何を、と訝った月森を、今度は揶揄を含めて笑わず続けた。
「多分日野さんも、月森のそういうところも好きなんだろうね」
「何―――」
「月森」
硬い声音に変わり、反論させない迫力が電話を通しても伝わる。
「音楽追いかけるのもその上昇思考が悪いとか言わないよ。羨ましいくらい。
だけど、…日野さんは、泣かない子だった?」
加地の言葉を否定したくて、とびきりの笑顔を思いだそうとして、出来なかった。
何故ウィーンへ春に行くことを言わなかったか尋ねたときの傷ついたような顔や、送り出すときの泣きそうな笑顔。
ウィーンのことは、言えなかった。
言おうとして、離れてしまうのが怖くて、声が詰まった。
優しい音楽を奏でる手が離れてしまうことが、怖かった。
「電話でも喜ぶよ?それに僕みたいなのが側にいるんだよ?取られちゃうよ?」
落ちた雰囲気を浮上させるような口調で言った。
月森は苦笑に似た笑みを湛えるに止まった。
「加地。君はそんなことしない」
「なんで?」
「本当に奪う気なら、君はおれに電話なんてしない」
「……ちぇ。本当に奪えなくなったじゃない」
それから二、三言葉を交わし、電話を切った。
ウィーンでも使っている、彼女から貰ったマフラーを見て、想う。
夕方までなにかとでかけている自分と、慣れない音楽科で最終下校ぎりぎりまで頑張っているであろう彼女は、今、
ジリリと思考を割くように鳴ったベルに月森ははっと顔を上げた。
どのくらい考え込んでいたかはわからないが、驚いて思考が空回りしながらも電話を取った。
受話器の向こうは、こちら名乗る前に明るい声をあげた。
「蓮、元気?」
「え?あ……お久し振りです」
驚いたのかまだ空回っているのか、突然の質問の答えとは違う返事をしてしまった。
電話の主は彼の母親。
「元気そうね?そっちでは忙しいかしら」
「いえ…自分のペースでヴァイオリンも、語学の勉強もしているので」
息子が言う自分のペースが如何に早く、妥協を許していないか良く知っている母親は苦笑した。
この一人息子は食べてさえいれば心配無い。
「なら――お願いがあるのよ」
桜はとうに散って、緑陰が濃さを増して少し暑さすら感じ出した頃。
屋上で楽譜を整理していた香穂子は懐かしい楽譜を見つけた。
懐かしいと言うほどの月日ではない。
たかが一年前だが、沢山のことがありすぎてずっと前に感じる。
―――――感傷的なワルツ
(悔しくて躍起になっただけだったんだけどなぁ…)
苦笑した。
まさか、恋に、なるとは思わなかった。
ヴァイオリンを構え、つと弓を滑らせる。
そう、ヴァイオリンだって、交わるものではなかった。
後悔している訳ではない。
ヴァイオリンも、月森との恋も。
だけれどずっと心が痛い。
どうして、彼は。
カチャン、とヴァイオリンの音を聞いてか遠慮がちに開いた音がした。
だけれど振り向けない。
動けばぎりぎり堪えている涙が零れてしまう。
水気に弱いヴァイオリンを建前に、泣けない。
泣きたくなかった。
ヴァイオリンの旋律に紛れコツコツと足音がゆっくり近付く。
すぐ後ろで止まった気配がして、香穂子は弾いたまま身を硬くした。
「…………香穂、子………」
聞き間違いだと、思った。
本当はもっと違う言葉で、声で、自分の弱さが彼の声で、名前を呼んだ。
だが、違うと否定する片隅で気がつけば振り向いていた。
星奏学院の制服ではないが、どんな表情を作るか作りあぐね、どうも出来ず困ったように笑っている月森。
「…れ…っ……」
ヴァイオリンと弓を握る手に、月森の一回り大きい手が重ねられた。
「発つ前の暫く…隣りで弾いていたから気付かなかったが、随分背筋が綺麗に伸びた」
「なん……なんで………」
その問いに、月森は少し瞼を伏せた。
「こっちで…母に頼まれたコンサートがある。終われば、すぐにウィーンへ戻る」
「蓮くんらしいね」
笑ってみせたが、月森の表情はいまだ曇っている。
「香穂子」
涙で揺れる瞳で月森を見つめ返した。
「おれは、日本へ帰るには音楽的な理由が要る」
香穂子はひとつ頷いた。
「……だから…」
例えば日本で、香穂子の側で幸せにしてくれるだれかが、いるかも知れない。
自分ではない、誰か。
それを言わなくてはいけないのに、言葉は喉で止まり、その感覚にウィーン行きの日を言えなかったことを思い出した。
「だか、ら……」
どうか、幸せに。
「知ってるよ」
涙目は変わらないが、微笑を浮かべていた。
「知ってる。
蓮くんはあたしがいなくても生きていけるけど、ヴァイオリンが無いと生きていけないと思う」
「………ああ」
実際この数ヶ月香穂子と離れて、手付かずになったことは何もない。
折りに触れ、思い出すのが香穂子だけだっただけ。
「だから、音楽とあたしどっち取るのとか、そんなこと思わないし、あたしのせいで留学辞められても困っちゃう」
咄々と続ける香穂子は転科してからの月日を思い出す。
不意に月森の姿を探してしまうことは何度もあった。
だけれど月森が二年通って一年一緒に過ごしたこの学院は、月森の残像すら見せてくれないことに何度も傷ついて。
「その代わり」
だけれど、あの日、送り出した日。
欲しかったのは悔恨でも謝罪でも愛でもない。
「約束が欲しいの」
どうか、またいつか、なんて言わないで。
「良いのか…?」
「……そしたら頑張れるから」
香穂子の弓を握ったままの手の甲にひとつ、月森は口接けを落とし――――
「おれは待たない。けれど追い付いてきてくれ」
いつか、否、近い将来に、隣りで。
「君と、君の音楽を愛してる」
何よりも雄弁な笑顔は、彼女が紡ぐ柔らかな旋律に似て。
ひとり思い出すならこの笑顔が良いと、漠然と思った。
恋だけでは、上手くいかないこともあるけれど。
「ウィーンの町並みは本当に綺麗だから、一緒にみれたら良いと思う」
掴んでいた手をくるりと返し、その手の中に握り込ませた。
弓を落とさないよう指で挟みながら手を開くと細い、繊細な細工がなされた指輪。
一見シルバーだが、輝きが暗い黄みがかっている。
「ホワイトゴールドと言うらしい。
優しい光り方をするから馴染みやすいし、チェーンを通せばネックレスにもなる」
少しためらって、恥ずかしさで逸らしてしまいたい衝動に駆られながらもまっすぐと香穂子を見た。
「薬指のサイズにしか合わないようになっているが…約束して、いいんだろう?」
次に会えたら渡したいと買ったもの。
「渡せて、よかった」
ヴァイオリンをケースに直し、指輪を左の薬指に填め、きらきらとした笑顔で香穂子が振り向く前に呟いた言葉は、柔らかに融けた。
PR