月森の名前と緩やかな変化。
「月森くんね」
名前を聞かれて、舌打ちしたくすらなった。
「月森。月森、蓮だ」
「月森」の名前は、今の自分がある最大のきっかけだが正答評価を貰えない原因でもある。
親の威光を考慮した過大評価や、妬みや嫉みからの過少評価。
起因するものと結果は違えど正当でないなら価値がない。
その意味では両方とも全く同じだ。
自分の名前は、苦い思い出が甦る。
「月森くんね」
高い、よく通る声。
質はヴァイオリンに似ている気もした。
もう一度つきもりくん、と口の中で呟くのが聞こえた。
「下の名前、蓮くんって言うんだね。凄く綺麗で素敵だね」
真っ直ぐ見つめる透き通った琥珀の瞳の中にあるのは優しさと誠実さ。
苗字ではなく、過去に名前を気にしてくれたのはいつ、誰だったろうかと有りもしない記憶を手繰る。
それが、日野香穂子との、最初の会話。
「蓮くんっ」
茶けた茜色の髪を揺らしながらヴァイオリンを持って駆けて来る香穂子に思わず笑みが漏れた。
「ヴァイオリンを持って走るなとあれほど……」
「両手で持ってるから大丈夫!」
「……手を振ってしまうことへの対策は十分だがこけてしまったら一緒ではないのか?」
あ、と呟いて両手に提げたヴァイオリンケースを見つめた。
ほんとだねと照れたように笑ってケースを持ち直した。
本当は、香穂子が怪我をしてしまうほうが大事なのに。
言えない自分を叱咤したくなるが、気分を害した風もなく、恐らくヴァイオリンの安全が前提で走ることを考えている香穂子が心から好きだと思う。
「危ないのはね、ほんとはわかってるんだけど。
でも蓮くん見つけたらどうしても早く傍に行きたいなって思ったの」
困ったな、と考える香穂子に絶対の安心感と、それ以上に愛しさを感じる。
自然に頬が緩む。
そんなこと、子供の頃すら無かったことなのに。
「呼んでくれれば、幾らだって待つ。それに君だけが近付く必要は……」
言葉を選び間違えたかと口を噤んだが、香穂子は嬉しそうに笑った。
「じゃあ今度見つけた時は「蓮くん」って呼ぶね」
意図は伝わったらしく月森は肩の力を緩めた。
「あたしね、蓮くんの名前凄く好きなの」
その科白に最初に香穂子と交わした会話を思い出した。
名前を、苗字ではなく自分だけの名を気に留めてくれた、会話。
「花が好きっていうのもあるんだけどね、「高潔な心」とか「神聖」って花言葉があるの。
だから、どんなひとで、どんなヴァイオリンを弾くんだろって凄く楽しみだったんだよ」
暑気を纏いだす季節に涼やかに咲く蓮の花。
水面に浮かぶ淡色の花は大きな大輪をたったひとつ咲かせる様は正に高潔。
「蓮くん自身も、ヴァイオリンも、音楽に凄く真摯なところはぴったりだって思った。
蓮くんって呼べるようになって凄く嬉しいの」
「………っ」
そう呼ばれて嬉しいのは、こちらなのに。
誰かに礼を伝えることに慣れなくて思わず逡巡してしまう。
そのうちにはにかみながら何を弾こうかと笑いかけてくる香穂子に気付いた。
表情も声も言葉も想いも、何もかもが目まぐるしい。
ヴァイオリンを構え、掲げた弓が弦に触れるその前に。
「おれは、」
弓を止めることなくただ独り言のように紡ぐ。
「君を好きになれたことが、嬉しいと思う」
香穂子の気配が微笑んだのを、存在と音色で感じる。
彼女よりも、音楽を選ぶ時。
香穂子は、泣くだろうか。
笑うだろうか。
怒るだろうか。
それとも、思いがけないくらい嬉しいことを言ってくれる彼女は、自分では思いも寄らないことを言うのだろうか。
香穂子が一番幸せになれる方法を選ばせたい。
それが「忘れる」でも、最善を尽くしたい。
嘘ではないが、音楽を選んで欲しいと渇望する。
(らしくない)
未来の、それも自分ではない誰かに何かを願うなんて。
今はただ彼女と奏で、話して、彼女の笑顔を見て、彼女を想う。
自分がいつも思い描くよりも、綺麗な笑顔で笑う。
「蓮の花、前より好きなのは、蓮くんがすきだからだよ」
それは確実に幸せと呼べるものだから。
君子花=蓮の花の別名
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