加地が気付いた、香穂子の好きなひと。
このひとを、愛したかった。
「日野さんの音楽は、僕が十七年理想にしていた音楽そのものだったんだ」
ねぇ笑って、愛しいひと。
朝、加地が学校に着くと加地の転校理由である香穗子はクラスメイトと談笑していた。
(あ、かわいい)
にこにこと一生懸命話している香穗子の笑顔を見て、ほわりとあたたかいものが胸に広がる。
へらっと緩みそうにある頬をぱちんと叩いて締める。
そうして教室に入り、自分の席に、彼女らに近づく。
「あっおはよう加地くん」
「おはよー」
「おはよ、日野さん、東雲さん。楽しそうに何話してたの?」
「クリスマス、私と香穗子と須弥とで遊ぼうと思って」
それを聞いて加地はきょとんとした。
「え?クリスマスはコンサートがあるじゃない」
「でもコンサートは二十四日でしょ?」
「成功のお祝いやってくれるんだって」
頑張らないと、と笑って横にかけてあるヴァイオリンケースをポンと軽く叩く。
「大丈夫、きっと成功するよ。東雲さん、うんと労ってあげてね」
「まっかせてー!」
「え、やだプレッシャーかけないでよ」
突然の発破に香穗子はコンサートまでの日数を指折り数え、微妙な表情を作った。
参加している加地が読むに、「間に合わなくはないだろうけれどこれから次第」だろうか。
香穗子が目指す完成度の高さを、加地は知っている。
易い処では無いが、彼女なら成せることも知っている。
だから、大丈夫ともう一度繰り返した。
「香穗子ばっかりじゃなく加地くんも頑張ってね」
「ふふっ勿論。あ、東雲さん、谷が来たよ」
「ほんと!谷くんっおはようっ」
加地が来たときよりもずっと元気が良い声に香穗子と顔を見合わせた。
きっと香穂子の時も加地の挨拶と然程変わらなかったのだろう。
丸くした香穗子の目からそれが読み取れ、小さく笑った。
愛しそうに東雲を見下ろす谷と、その谷を見上げ嬉しそうに話す東雲を見て加地は苦笑する。
人目の憚らなさに思わず自分が重なった。
そして行動力がある分、自分の方が質が悪いと思う。
「いいなぁ」
教室の喧噪も、すぐ隣の席で零れ落ちた、他でもない香穗子の声は掻き消せない。
「日野、さん?」
彼等を見つめる香穂子の横顔は、憂いを帯びていた。
彼女が見遣る方を見て、弾けるように気付いた。
(そ、か………)
誰かに、恋をしているんだ。
不思議なほど、哀しさも焦りも、喜びすらもなかった。
「って思ったんだけど、土浦何か知らない?」
四限目が終わり、昼食を買おうとした土浦は教室を出たところで加地に捕まり、連行された先はカフェテリア。
そして加地の私見に塗れた脚色付きの朝の一見を聞かされた。災難だ。
人災と言って良いと思う。
何だか授業を受けるより疲れた気がする土浦は嘆息まじりに言った。
「……知ってどうすんだよ」
「そりゃ、協力したいんだよ」
加地の答えに土浦は眉を少し顰め、怪訝そうに加地を見た。
「お前、日野がすきなんじゃないのか?」
「何言ってるの土浦。知ってると思ってた。好きだよ」
土浦はそろそろ頭痛がした気がした。
「……好きな女の恋を叶えたいのか?お前」
土浦の科白に、加地こそが何を言ってるんだとばかりに眉を寄せた。
「あのさ、土浦。
僕は確かに日野さんに憬れてるし、日野さんに逢いたくて転校もしたし、それを隠そうとも思ってないけど。
僕が男で日野さんが女の子だから何か勘違いしてない?」
す、と瞳を伏せ、初めて逢った時を思い出す。
あの時ほど自分の良すぎるほどの耳に感謝したことはなかった。
「日野さんの音楽は、僕が十七年理想にしていた音楽そのものだったんだ」
一分の狂いも無く、夢想し続けた音楽。
それこそ恋のように。
「日野さんに対しては恋愛じゃない。憧憬だよ。
先人の偉大な音楽家のように、恋はきっと日野さんの音楽を豊かにするよ。
だから、どうせなら幸せな方が良いじゃない。
………友人としても叶えてあげたいと思う」
聞いて、は、と土浦は溜息を吐いた。
「お前が思ってるほど簡単じゃないかも知れないし、……想いあっても叶わないことだってある」
「土浦……?」
何か知っているらしい土浦の様子には気付いたが、加地は聞く事は辞めた。
土浦が言っても良いと判断したら回りくどい言い方はしないだろうし、言わないと決めたら言わないだろう。
「……肝に銘じておくよ」
話を切るように、殊更に音を立てて椅子を引いた。
「ほら、早く買わないと昼休み終わっちゃう。何食べようかなー」
茶目っ気を滲ませメニューを言いあげる加地の後ろを土浦もついて歩く。
ふと、赤茶けた髪が加地の視界の端を掠めた。
思わず反射的にそちらを向くと、思った通りのひとで思わず口端と目許が綻ぶ。
「日、」
朝と同じく愁いを帯びた、揺れる瞳は今度はしっかりと誰かを捉えていた。
その視線の先を追う。
何処かで警鐘が鳴るけれど、知りたかった。
否、本当は知りたくなかったかも知れない。でも間に合わない。
見えたのは光の加減で赤が強くなったり青が勝ったりする、濃紫の髪。
その髪のように上品だけれど捉えきれないひと。
(―――柚木さん)
ああそうか、あの瞳は彼の為か。
ほんの数秒前まで知りたいと思っていた事を知って、すとんと程良い重しが置かれたように落ち着いている。
けれど、また別のところでざわざわと落ち着かない。
少し、不安、に似ている。
「加地、どうし―――」
「…ああ、ごめん土浦。行こう」
何を食べたかなんて、思い出せなかった。
予鈴が鳴る前に土浦と別れ、教室に向いた足はそこを通り過ぎ、普通科の屋上へ行った。
(なんでかな)
何故こんなにもやもやしているんだろう。
彼女の恋を叶えたいと思っていたのに、相手を知ったら願いが萎んでしまった。
(苦手な柚木さんだから?
……僕そんな心狭いんだ…)
せめて彼女に対してだけは、この青空のように澄んだ心でいたかったのに。
彼女に対しては口先だけの自分でいたくなかった。
あの、きれいな音を奏でるひとの傍に居れる分だけは。
澄んだ空を見続けていると自分の底の浅さを意識しすぎて、加地は瞼を伏せた。
―――あっおはよう加地くん
耳に馴染んだ、メゾソプラノというには少し高い声。
――――・・・いつから、あの声を心地いいと思い始めたのだろう。
何かに気付きそうだったけれど、加地の意識は空へ吸い込まれた。
(……寒、)
さっと頬に冷えきった風が吹いて加地は目を覚まし、とろとろと自分の状況を思い出してがばっと体を起こした。
何だかセンチメンタルなことを考えていた筈なのに、あっさり眠れた自分に心底驚いた。
サボるのは五限目だけのつもりだったのに、結局午後の授業を全て惰眠を貪ってしまった。
(何だか疲れたかな……)
あまり楽しくない事を考えながら寝たせいか妙に頭が重いのに、寝起き特有のふわふわした感覚に酔いそうになる。
(帰って、家で練習しようかな)
コンサートも近いのに午後から居なかった自分を、彼女がどう思っただろうか。
自分が参加する曲の連取は今日は無かったから、然程気にかけていないだろうら。
いいやそんなことどうだって良い。
自分が彼女の音楽が好きだから、彼女の音楽を聞けたら良い。
………だから、どうだって良かった筈、だ。
浮遊間を感じながら加地はゆっくり教室への道を辿る。
鞄とコートを取って帰ろう。
一晩、今度はきちんと寝て、忘れてしまおう。
何だか今日の自分はおかしい。
気を晴らすつもりでふと窓の外を見下ろした。
そこにはヴァイオリンを持った香穂子と、フルートを構えている柚木がいた。
なんて運命だと、哀しげに瞳を彩り小さく口端だけあげた。
悪趣味だとは思っても何となくすぐには動けなかった。
香穗子が何か言っているということだけわかった。
瞬きひとつ、ふたつして口を噤んでも柚木は暫く黙ったままだ。
そして目を凝らして漸くわかるほどの動きだったが、確かに柚木が何かを告げる。
香穗子は半歩柚木に近づいたが、踏み出した足を反転させてヴァイオリンケースを掴み、駆け出した。
「………っ!」
残された、たった今香穗子を傷つけただろう柚木に対して反射的に責める言葉を投げつけようとした。
が、一言たりと発すること無く飲み込まざるを得なかった。
眉を寄せて唇を噛み、握り込んだ手は震えていた。
『仮令自分の意に染まぬことでも――――――』
吐き出すように言った柚木の言葉が蘇る。
到底理解出来なかった。
柚木の辛さを目の当たりにしても変わらない。
本当に、自分が欲しいものを全て持っているのに、何一つ叶わない、叶わないと思って叶えようとしていない。
自分なら全て掴もうとするのにと思うから歯痒くて仕方が無い。
(でもそんなこと日野さんには関係ない)
加地は行こうとしていた方へ走り出した。
きっと香穂子は泣いているだろう。
もしかしたら彼女は柚木の真意に気付いているかも知れない。
柚木の生き方や途が間違っているかなんてわからない。
けれど、香穗子が。
(日野さんがひとりで泣くなんて、間違ってる)
走ればすぐに着く、自分の教室。
本当はひとりで居たいのかも知れない。
やろうとしていることなんてただのお節介で。
けれど、今ひとりで泣いている彼女が、明日には何事も無かったように笑うんだと思ったら、心臓がきりきりと痛んだ。
教室に入る前に香穗子が居るか確認し、息を整えながら心の準備をする。
だが、心臓はまだドクドクと早く脈打つ。
(………?もう息は治まったのに)
扉の硝子窓から中の様子に伺う。
香穗子は自分の席ではらはらと泣いていた。
その姿を見て、一度だけ脈動に微かな甘いものが広がる。
その甘さが、加地が気付かなかった想いを仄めかす。
(ああ………)
香穗子が関わると自分の利害にとことん疎くなるのは知っていたけれど、こんなに、いっそ滑稽なくらい疎いとは思わなかった。
柚木だから、釈然としないと思っていた。
けれど、誰だろうと関係なかったのだろう。
(欲にだけしっかり気付くなんて)
苦笑しか出ない。
そして教室の扉に手をかけた。
カラカラと鳴り、香穂子は反射的に音がした方を見た。
「加地くん……!」
「日野さん」
掌で乱暴に涙を拭い、矢継ぎ早に話す香穗子へ加地は足を踏み出した。
「や、これ、は、ちが……っ」
はらはらと透明な涙が、それを拭おうとした加地の指にあたり、落ちる。
水晶が液体になったらこんな感じかも知れないと、ぼんやりと考える。
けれど、自分は香穗子の笑顔の方がずっときれいだと思う。
本物の水晶より、ずっと。
もう泣いているのは加地に隠しようがないと悟った香穂子は顔を覆って肩を震わせた。
その肩を見て、悔しく思う。
きっと他の女の子なら、恋愛感情が無くても、振り向かせる気が無くても慰めの言葉をかけながら肩を抱けるのに。
ああ、本当に大切なひとにだけ、できない。
顔を覆う香穂子の手をそっと外して、制服の袖を指の付け根あたりまで伸ばす。
塞き止めるものが無くなって、涙はぽろぽろとただただ落ちていく。
「……赤くなったね」
伸ばした袖で、触れるほどの、力と呼べない力で香穗子の頬に当てる。
落ちた涙はそこに吸い込まれていく。
「ねえ、日野さん。
誰を好きでも、何を好きでもいい。心のままにいて」
赤く濡れた瞳が、加地を見上げる。
まだ言えない。
大切だから、好きだなんて言えない。
言葉にすることは出来ないけれど、彼女の、香穂子の心を愛している。
止まらない涙を流し続ける香穗子に加地が泣き笑いのような笑みを落とす。
俯く香穂子にそれは見えない。
「僕、日野さんには笑っててほしいな………」
涙が落ちるごとに天上の星が落ちるように、輝きを無くしてしまうから。
太陽に輝いて、月のように優しい笑顔こそが、人生の幸いだから。
だから、ねぇ泣かないで、愛しいひと。
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