傘を忘れた志水が持ってる1本の傘の使用法。
「志水くん、あたしの傘使う?」
ある寒い日。
突然降り出した雨空をどうしたものかと見上げる少年がひとり。
「志水くん?どうしたの?」
「日野先輩…お久し振りです」
いつだって変わらない彼のマイペースさに香穂子はくすりと笑った。
「雨降るなんて思わなくて。
傘、どうしようかなあって考えてたんです」
土浦や火原ならば走っていけば大して被害はないだろうが、そんな持久力も体力もなければ志水にはそもそもそんなことを思い付かない。
足を止どめざるを得ない雨を見上げながら思索の海を漕ぐのだろう。
そうしているうちに見ていられなくなった彼の友人が傘を貸すのだろうなと香穂子は思った。
勿論彼はそんなこと端から期待などしていないけれど。
幸い今の香穂子には傘は無用の長物。
「志水くん、あたしの傘使う?」
手にしていた傘を香穂子は肩の辺りまで持ち上げ見せた。
「これね、置き傘にしてたんだけど今あたし傘使わないから」
言いながら香穂子は校門に視線を投じた。
黒塗りの車の前で傘を差しながら香穂子を待っている柚木がいた。
少し恥ずかしそうに香穂子が微笑した。
「これシンプルだから志水くんならそんな変にならないし。ごめんね、あたしもう行くね?」
「有り難う御座います…」
ぱたぱたとしっかり手を降って廊下を走る香穂子を見送り、再度校門を見る。
傘を差さず走ってきた香穂子を、柚木は自分が濡れるのも構わず小走りで近付き香穂子に傘を差した。
何を言っているかまでは流石にわからないが、車までの数メートル、香穂子の肩を抱きよせ、香穂子が先に乗り込む際も香穂子が濡れないよう、細心の注意を払って見えた。
幸せそうに笑っているのが純粋に嬉しい。
「志水くん…?」
「あ、冬海さん」
寒い季節に雨が降り気温が下がって寒いのか、包むように手を握り締めている。
「えと、もう帰るの…?」
「どうしようかな…。雨だから練習し辛いし……」
ぼうようとした感のある志水のゆったりとした話し方は冬海にとって聞き取りやすい。
付き合いの多い先輩男性やクラスメイトより視線がやや近いことも冬海が感じる安らぎに拍車をかける。
「傘持ってるから、てっきり帰るのかなって…」
「これ、日野先輩が貸してくれたんだ。置き傘、使わないからって」
「香穂先輩……」
視線を雨が降り止まない窓の外へ滑らせ、もう発車してしまったがいつも車が停まっているあたりを見る。
良かった。
あの優しくて強い、大好きな先輩は、今幸せなのだ。
まるでお裾分けして貰ったかのように冬海は大きな瞳を緩く細めた。
「冬海さんは傘、ある?」
「えっ?あ、えっと今日急いでて、天気予報見てなくて……」
不意にかかった言葉に詰まりながら返す冬海はスムーズに返せないことに内心で己に叱咤する。
だが志水は気分を害するどころか意に介した風もなく、そう、と返した。
「本屋寄っても良い?」
「え…っか、構わないと思うけれど……?」
この学院に「寄り道するべからず」といった校則は無かったはずだ。
「あの、志水くん?」
どういうこと?と聞こうとしたが、音になる前に志水がその答えを出した。
「暫く止みそうにないから…送ってく。
でも昨日の夜、頼んでた本が届いたって連絡があったから……」
漸く志水が言っている意味がわかった。
が、問題が新たに波及した。
志水が自分を送る?
いつの間にそんな話になったのだろう。
だがそれを冷静に聞けるほど冬海にとって衝撃は小さくなかった。
「え…ええっし、志水くん、あたし、平気だから…。これでもね、あたし体強くって、……」
しどろもどろになりながら断ろうとする冬海に志水は少し困った風を見せた。
「じゃあ冬海さん、この傘使って」
カマをかけているのではなく、純粋に。
それが分かるから、軽く絶句した。
彼の中には送るか、傘を渡すかの選択肢しかない。
嫌だとか嫌いだとか言う訳でも恐怖感があるわけではない。
答えは密やかに輝く金の瞳の目許に微かに散った朱。
「じゃあ、お願い、しても良い…?」
「うん、ありがとう」
どうして「ありがとう」なのだろうと訊こうとしたが、止めた。
余りに優しげに笑うから。
「でも帰る前に、カフェテリアに行こう。今出ると冷えてすぐに吹けないから……」
「吹…?」
「うん、クラリネット。家でもするんでしょう?」
握っていても相変わらず冷たい指先。
だけれど胸の奥がじんわりと暖かい。
雨に隠された太陽は、きっとこのひとだ。
暖かい紅茶で暖めた冷たい指先を、暖かい陽射の手が包むのは、未だふたりにすらわからない。
隠れたおてんとさまも知らないけれど、いつか、きっと。
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