音楽科生徒に告白された冬海。
恋人がいるという志水。
「なにかあったの?」
「好きなんだ、冬海さんが」
そう言われ、停止した思考の深いところで掠めたのは、ひたすら音を求めて止まないチェリストと、人としても演奏家としても敬愛しているヴァイオリニストだった。
彼らが付き合いだしたと囁かれだしたのは、最近の話だ。
アンサンブルの最中に生まれた恋は、様々な人間の様々な感情を乗せ、口端に上り流れた。
報道部が動かないのは、香穂子が実質功績を上げている天羽に止めさせているのだろうとも容易に想像がついた。
コンクール参加者ではあるがヴァイオリン・ロマンスではない。
それは他の報道部からの取材も断る口実になる。
告白されたのは、噂に疎い彼女がその噂を聞いて、漠然とそんな事を考えていた時だった。
驚いて半ば呆然としながら彼女は、冬海はひとりで森の広場へ来ていた。
気分転換に此処へ足を運び、気を紛らわせるほど花は無かったが、金木犀の香りがほんの少しだけ冬海の心を緩ませた。
ベンチに座っていた冬海は、すいと膝に置いた手に視線を下ろした。
本当はきちんと断るつもりだった。
あたしは、貴方の事を何も、名前さえも知らない。
だから、ごめんなさい、と。
心は決まっていたのに断って傷つける恐怖が、喉をつかえさせた。
幸い彼は苛々しながら待ったりせず、考えておいてと告げると冬海の前から立ち去った。
だけれどいつかは言わなければならない。
校内で好きな場所に来ているのに、気が塞がりそうだ。
「冬海さん?」
突然影が落ち、呼ばれた冬海が顔を上げるとあどけなさが色濃い志水の顔が視界に入った。
「え、あっ志水くん…!」
陶磁器のように白い冬海の頬に散った朱を隠すように少し俯いた。
「何かあった…?あんまり元気じゃなさそう…」
「……何でも…」
心臓がうるさいほど疾走している。
自分でも何でも無いようには聞こえない。
自己嫌悪が強くなる。
あの先輩なら、どう答えるにせよ少なくとも濁すような答え方はしない。
そよ、と少し冷たさが増した風が金木犀の芳香を孕んで吹いた。
「ここで弾いて良い?」
此処で練習するつもりだったらしく、志水はケースに入ったチェロを抱えていた。
「あ、うん…!あの、聴いてても良い…?」
志水が首肯したのを見ながら、冬海は志水がチェロの弓を弾いても十分邪魔にならない程度までスペースを空けた。
そこに座り、楽譜を広げ、調弦を終えて弓を弦に当て、楽譜通りに曲を弾く。
心地よく低い音で構成される豊かな旋律を聴きながら冬海は暫し忘れていた、否、考えないようにしていた懸念を思い出した。
大好きな先輩の恋人で、今は傍らでチェロを弾く志水へ芽吹いた、自分の気持ちを。
状況が劇的に変化することなく数日が過ぎた。
冬海が自ら動いて志水に気持ちを伝えるということをすることも、名も知らない男子生徒からの告白を断りに行くことも出来ない。
ただ焦燥に似た気持ちだけが渦巻いている。
志水は相変わらず会えば暫く音楽の話をし、香穂子も冬海を見るにつけて他愛ない話をした。
会話そのものは二人とも違った意味だが楽しい。
だが、特に香穂子には後ろめたくて仕方がない。
寄りにも寄って、大好きな先輩の、恋人。
何故自分はいちいちタブーを踏んでしまうのだろう。
自己解決出来れば良かったのに、抱える以外に出来ない。
否、もっと質が悪い。
学科も学年も同じなら会うまでいかなくても見掛ける機会は多い。
その度に、花が太陽と水を受けるように想いが育つのがわかる。
心から喜んで応援したいのに、その心がそれをさせてくれない。
狡い人間だとほとほと嫌になる。
ポキン、とシャーペンの芯が折れた音と手応えで冬海は熟考の世界から抜け出した。
はっとして手元を見ると今日、自分が当番の日誌が途中のまま止まっていた。
芯が折れて歪になった字を消して、からりと窓を開けた。
冷たい空気を吸い込んで漸く呼吸をした気になった。
微かに冬と、あの日と同じ金木犀の香りがする。
「…………」
悪い事、ではないのだろうか。
志水にとって。
香穂子にとって。
志水と香穂子の仲にとって。
友達としてだから、なんて言い訳は出来ない。
自分の中には志水に向けた、恋心があるのだから。
痛いほど、誰よりも自分が知ってるのに誤魔化すなんて出来る筈がない。
体が冷え始めて窓を閉じ、あと数行の日誌に取り掛かった。
クラリネットが吹きたい。
終わったら、うんと明るい曲を吹いて気を紛らわせよう。
でも、いつかその時の気分にあったものが良いと聞いたことがある。
曲名を頭の中で手繰りながら日誌に小振りの几帳面な字を連ね始めた。
「志水は、日野先輩だろ」
唐突な声にびくりと肩が震えた。
その声を理解して血の気が引いた。
数日前、自分に告白をしたひと、だった。
「日野先輩?」
「聞いてたか?ワルツだよ、ったく」
スローテンポの、志水の声に続いたのはまた別のひとだったが、誰かまではわからない。
だが話の筋は見えた。
「………っ」
軽いパニックを起こしそうになったが、何とかやり過ごす。
冬海が壁一枚を隔てた先にいるとは知らない彼らは話を辞める事はない。
「…ぼくは、他に誘いたいひとがいるから…」
理解出来ず、一瞬目の前が白くなった。
なら、香穂子はどうなる?
志水に限ってはと考えることすらなかったが、それが本当なら、香穂子が傷ついてしまう。
「志水、それ…」
志水がどんな表情をしたか、冬海には見えない。
そんなことを考える余地なく衝動が冬海を突き動かす。
「志水くんっ」
力任せに扉を引き開け、彼らの驚いた顔とかち合う。
「だ、駄目…!そんな事聞いたら香穂先輩悲しむから…か、香穂先輩を大切にして欲しい、の…っ」
声が震える。
摘み採られようとする恋心が悲鳴を上げる。
それでも、言わずにいられなかった。
「冬海さん…?」
呼ばれ視線を向けると、あの男子生徒が苦いものを噛み締めたような顔をしていた。
「ごめんなさい…っ」
志水がいる場所からの視線が痛い。
どんな顔をしているかが怖くて、志水の顔を見れずにその場を走り去った。
「は、……はぁっ……けほっ」
冬海とはおよそ無縁と思われがちな運動。
肺活量はクラリネット奏者には必要な為人並以上にあるが、体力は違う。
何も考えずに走っていたが途中から目的を屋上に定め、全力疾走した。
途中誰かにぶつかった気がしたが、誰だか分からなかった。
それに気付く余裕すら、なかった。
競り上がる鉄錆の味にも気付かない。
肺よりも喉よりも、散りゆく恋心が痛い。
手折った自分自身の手が痛い。
これで良い。
これで良かった。
だけれど。
願ったのに、朽ちていく恋心が、切ない。
「あれっ冬海さん?」
何かから逃れるように出た屋上で、聞き覚えのある声は、微かに目をみはった加地。
その顔を優しげな笑顔にするりと変えた。
「なにかあったの?」
「………っ」
元々の声や下げられた視線、意図した緩やかさが安心感を呼び、想いが堰を切る。
「好きなひとたちの、恋を応援したかったんです…」
「うん」
「で、でもすきだから出来ないんです……っ」
「うん」
「そんな自分が、嫌、だったんです…!でも、自分で無かったことにしたら、苦しくて……」
「……うん」
心臓と同じ早さで頭を撫ぜる手は優しい。
視線を冬海よりも後ろに向けた加地がふ、と笑う気配がした。
「じゃあ、僕と付き合おう?」
「………は…?」
唖然としていると腕を軽く引かれ、少しよろめいた。
「言いたくないなら聞かない。僕が、慰めてあげるよ?」
「い……、ぁっ」
「先輩」から唐突に見えた「男の人」の部分に冬海は恐怖した。
強くはないが、振りほどけない力が怖い。
ゆっくりと近付く加地の体に、顔に、背筋が震える。
「ぃ――――っ志水くんっ!」
自分では何を言ったかわからない位、本能に近いところが叫ぶ。
バタンと後ろで何かが鳴った。
それに意識を傾ける余裕すら無い冬海の手を別の誰かが握った。
「…っはぁ……すみません、加地先輩……、呼ばれたので、離して貰えますか?」
「うん。来てくれて良かったよ」
少し眉を顰めた志水に加地がくすりと笑う。
「志、水くん…」
「ごめんね、冬海さん」
するりと冬海の腕の拘束を解いた加地はいつもと変わらない穏やかな瞳をしていた。
「あの、加地せんぱ……」
「ごめんね、怖がらせて。そんなつもりじゃなかったんだけど……先輩としては後輩が可愛くて、お節介が焼きたくなるんだよ」
ぱちんとウィンクをした加地に冬海が呆気に取られている間に、加地は屋上から出て行った。
「…………」
どうしよう。
さっき、あんな出て行き方をしてしまった。
余計なことも口にした。
本心ではあるけれど、志水にとってそれこそお節介でしかないのに。
「さっき、天羽先輩が此処だって教えてくれて…怒られたんだ」
「え…?」
「泣かせて何してるのって」
「ち、違うの、あたしが……っ」
言い募ろうとした冬海は、それを止めた。
志水のほうが、泣きそうに見えた。
「……何から話して良いか、わからないけど…」
きゅっと手を強く握ったのは、どちらだろう。
さわ、と吹いた風は、やはり金木犀の香りがする。
「僕は、日野先輩と付き合っていないよ」
「は……」
言われてはたと気付いた。
本人たちからそんな話、聞いたことはないのだ。
完全に理解すると冬海はずるずると座り込んだ。
「や、やだ、あたし……っ」
脱力した冬海に合わせ、志水が座った。
「冬海さん」
湖面のように澄んだ瞳に冬海が映る。
「ぼくは、付き合うとかよくわからなくって…。
だから、冬海さんがしたいこととか欲しいものとか、全部あげれないかも知れない」
きょとんとした冬海に構わず、志水は続ける。
「だけど、上手くチェロが弾けたときとか、曲が完成したとき一番に会いたいのも、良い事も悲しい事も伝えたいのも、冬海さんだよ」
「し、みずく……っ」
言葉にならない。
摘んだ筈の想いが、色鮮やかな花を咲かせる。
香る芳香が、痛んだ胸を癒し、擽る。
甘やかに香る想いを、どうか彼も感じていて欲しい。
「あの、志水くん……」
「はい」
「えと、あの……お、怒らないでね…?」
訝って少し近付いた志水から、この状況や自分の勘違いや言おうとしてることや、色々なものが朱になり染まった頬を隠すように冬海は俯いた。
「なんだか、今凄く志水くんと合奏したいなぁって……」
更に俯いた冬海は視線だけをあげると、志水は今日一番笑みを深くしていた。
「ぼくもしたいな、合奏…。クラリネットとチェロ取りに行かなくちゃ…」
立ち上がった志水は腰を屈めて冬海に手を差し出した。
志水と志水の手を交互に見つめ、おずおずと差し出した。
その手をしっかりと、だが冬海が怖がらないように握る。
差し出した時と同じくらい遠慮がちに握り返す手。
こっそりと盗み見た、冬海の綻んだような笑顔。
全てが愛しい。
手を握ったまま楽器を取りに廊下を歩きながら、志水はふと香穂子と付き合っていると噂が流れた発端を思い出した。
「日野先輩、少し良いですか?」
「どうかしたの?」
「男の人が怖い女の子に、どうしたら怖がらせずに男として見て貰えますか?」
隠された名前を感じて、目を丸めた香穂子はすぐに微笑し、志水に聞こえないよう口の中で「よかった」と呟いた。
それは、金木犀が綻ぶ前の、秋よりも夏が色濃い頃の話。
金木犀(fragrant olive)の花言葉=「初恋」など
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