アンコール時アンサンブル中自信喪失に陥った香穂子。
「その代わり僕が抱きしめたいから、抱きしめてようと思って」
「参ったなぁ……」
屋上で香穂子は足を投げ出したまま座っていた。
段差を登って、死角になる場所で香穂子は座っていた。
ぽつりと呟いた声は空気に融け、俯いたせいでいつの間にか顔にかかった髪で横顔も見えない。
呟いたきり、真一文字に引き結んで感情を堪えた口許は微かに戦慄いている。
地上より高度が増して強くなった風が吹き荒ぶ音よりも、さっきの科白が強く頭で木霊する。
――――優しいから、放っておけないだけよ。
すぐそばに置いたヴァイオリンケースにちらりと視線を遣る。
今更だった。
コンクールの頃は毎回泣きそうになっていた陰口に耳を塞ぐことを覚えて、批判と批評を聞き分けて。
―――――調子に乗らないで。
―――――優しいから、放っておけないだけよ。…加地くんは。
さっき言われたことの根底も気付いている。
要は嫉妬だ。
加地が好きなのに、相手が悪目立ちしているとも言える自分。
ただのやっかみだ。
分かっているけれど、自分でなければ彼女はあんなこと言わなかったかも知れない。
それに、幾ら苦言の種類を聞き分けていると言っても、傷付かない訳ではない。
純粋な悪意だからこそ堪えた。
香穂子の、ずっと隠していた疑心暗鬼の部分に少しずつ溜まっていったものが溢れそうだった。
「加地くん……」
彼女の恋を、ただの恋でなくさせたのは、自分かも知れない。
言わせたのは、自分かも知れない。
少し傷がついて来たヴァイオリンケースを撫でる。
自分の傷に、重ねて。
重いものに塞がれて呼吸が出来ない。
喘ぐように無理矢理息を吸うと、喉が引きつった。
「離れたくない……」
音楽からも、加地からも。
言葉と一緒に、涙がひとつ零れた。
それが落ちて砕ける前に、濃緑とクリーム色が視界をさらった。
「……捜した」
荒い呼吸に混じって、数ヶ月で聞き慣れた声が耳朶に染み入った。
「か………」
加地が現われたことと、抱きしめられていることに驚いて呂律が回らない。
「は……ごめんね…、君のことは見てるつもりだったんだけど…」
きゅっと香穂子に回した加地の腕に力が篭もる。
「加地く、あ…あたし……」
何を言うつもりだったかはわからないけれど、何かを言おうとした。
「よいしょ、っと」
「えっ?」
中腰になっていた加地は、香穂子を抱き締めたまま地べたに腰を下ろした。
重心が移行し、体勢を崩した香穂子は加地に凭れる格好になった。
「ね、加地く…」
「寒かったでしょ?凄く冷えてる」
答えず、香穂子は加地の腕の中で顔を俯けた。
「……僕は君に嫌われても僕は香穂さんが好きだよ。
なら、僕から離れない方がお得じゃない?損はさせない自信あるよ」
あくまでにこにことしている加地に香穂子は呆気にとられた。
「…なに……」
「誰が何言っても僕は香穂さんを信じてる」
空転する思考で、香穂子はさっきのことを思い出す。
言われたときは、加地はいなかった。
座り込んでいた姿を見られたのなら、落ち込んでいたのはばれても理由はわからない筈だ。
戸惑いを見せる香穂子に加地は苦笑した。
香穂子の体を抱き寄せていた腕を解いて、同じところで手を組んだ。
余裕が出来てかち合う視線を、お互いが受け止め合う。
「ほんとはね、詳しくは知らないんだけど…香穂さんは自分の力不足ではそんな落ち込み方しないでしょう?」
「う……」
香穂子の赤茶の髪に手を差し込んで撫でながら話す。
「色んなひとから色んなこと言われて辛かったでしょう?」
「だって……やるって決めたもん」
辛かったでしょ、ともう一度繰り返し、呼吸よりもゆっくりとした動作で馴染ませるように頭を撫でる。
それに呼応するように、香穂子の瞳に涙が溢れる。
傷付かない訳ではない。
傷付いていない振りをしているだけ。
春のコンクールとは違う。
参加することに意義がある、なんて通じない。
失敗する訳にはいかない。
「…甘えて良いって言っても聞いてくれないもの。
その代わり僕が抱きしめたいから、抱きしめてようと思って」
加地と香穂子の、空いていた隙間が埋まる。
決してきつくはないけれど、緩くはない。
振りほどけば放たれるだろうが、崩してしまいそうで、出来ない。
まさに真綿。
愛しいほどの檻は安堵を齎す。
加地の胸に顔を擦り寄せた香穂子の口許は、今は柔らかな弧。
込み上げる愛しさに円くなるそれを、悲しいときに無理矢理笑ったように、無理に変えてしまうことなんて出来ない。
「加地くん、王子様みたいだけど、私には魔法使いみたいだね」
「そう?…どう受け取ったら良いのかな……」
「シンデレラが魔法で王子様のところに行くみたいにね、優しいところに連れてってくれるから」
声も、眼差しも、ぬくもりも、何もかもがあたたかい魔法のようで。
離れて、魔法が解けてしまっても頑張ろうと思える。
「頑張ってこようかな」
加地はゆっくりと手を離し、意気込んで立ち上がった香穂子を、高い青空を背景に見上げた。
眩しいのは太陽よりも、前進しようとする香穂子の微笑。
「加地くん」
「なあに?」
「やりたいことだから、頑張れる、けど、また挫けそうになったら、また魔法かけてくれる?」
どうやっても変えられない答えを、柔らかな風へ乗せる。
「ぼくでよければいつでも」
魔法が解けても解けなくても、帰る場所は、いつも。
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