アンコールNO引継ぎルートでの理事長就任パーティイベント後の加地父子。
香穂子は出てきませんが加香。
「葵、お前あまり悪いとは思って無いだろう」
帰宅した加地はのろのろと手を伸ばして電気をつけ、ソファに体を沈めた。
零時を回り、もう深夜と言って良い時間だ。
理事長就任パーティが終わり、香穂子を送り届けた。
体が重いのは疲れではない。
勿論それもあるが、多分に占めるのは怒りだ。
耳に残っている香穂子の演奏に重なって響く、嘲ったような理事たちの声音。
無意識に加地の眉間が寄る。
さっと気色ばんだ仲間の気配よりも、体を強張らせた香穂子が気になった。
背に庇って済むなら、どれほど楽だったか。
香穂子のことをただ運と、タイミングと、多大な情けだけでやっていると思っている人間はいる。
けれど、演奏もアンサンブルを纏めあげているのも彼女自身の努力。
彼女の努力は見ている人間には分かる。
けれど、逆を言えば見ている人間にしかわからない。
香穂子に対する穿った偏見や悪口が許せない。
「葵?寝ているのか?」
突然届いた声に加地はびくりと肩を揺らした。
「……ん、起きてるよ。少し考え事してた」
だがやはり少し寝かけていたらしい。
さっきとは違う倦怠感を帯びた腕を動かし、マフラーとネクタイを取ってそれぞれ放った。
「おかえり、父さん」
肩越しに首だけで振り返って、笑って言った。
が、酒が入っているらしくいつもより更に人好きのする笑顔を浮かべていた父は、一瞬それを止め、困ったように笑った。
「お前がアンサンブルに参加しているのは知らなかったな」
「んー…隠してるつもりじゃなかったんだけど……」
コートを脱いだ父が正面に座るのを待って、加地は口を開いた。
「今日は有り難う。…それから、ごめん」
父に対して謝るのは本心だ。
あの程度で父の風聞が傷つくことはないと思うが、息子として拙かったとは思う。
父は小さく苦笑した。
「葵、お前あまり悪いとは思って無いだろう」
「納得出来ないもの」
普通科だから?女子高生だから?コネクションがないから?
そんなもの、全て彼女の実力や努力を否定する材料ではない。
あからさまに顔をしかめ、いつに無く強情な息子に何処かで安心感を覚えた。
「お前が……」
言いかけの言葉にきょとんとした蒼色の瞳を向ける息子が、今より幼かった頃。
音楽が好きで、好きだから、ヴァイオリンを辞めてしまってから、生来余りなかった物欲が更に無くしていた。
そうと見えないようにしているから尚心配していたのだけれど。
目で問い掛けた息子に緩く首を振った。
「私は怒らないよ。
無暗に反抗したがった訳でも無いし、……あれで誰も助けないのは彼女が可哀相だ」
幾つか瞬いて、加地はゆっくりと視線を落とした。
「………じゃ……」
「うん?」
「迷惑、じゃ、ないかな」
もう何年も聞いていないような、弱気な声色。
「何か言われたか?」
「ん?ん~……まあ、違うひとにだけど」
思えばあの時ほど動揺したことなんて、数えるほどしかなかった気がする。
是と答えた息子に父は破顔した。
「嫌になったか?」
「なにが?」
「あの娘が」
「まさか!どうして?」
日野さんと言ったかな、と繋げる前に加地は素早く切り返した。
「嫌な思いをしたんじゃないのか?」
科白に反して、父の表情は蛍光灯の下で楽しげに閃く。
「わかってるくせに」
自分よりも、ただ彼女が心配で。
一切の重荷になりたくなくて。
どうしてか、空回りしてる気がするけれど。
「…なら、良いんじゃないか?」
ソファに体を沈ませ、静かに微笑う父に、幾らか動揺していたらしい自分に気付いて加地は苦笑した。
もうどれに動揺したのかわからないけれど、その動揺は間違なく香穂子に起因している。
ただそれだけで、父の言う通り「良いか」と思った自分に。
「そうだね」
背凭れに頭を預けて天井よりも遠い記憶を辿る。
香穂子を知ったときには術もなかった自分が、笑顔と心と音色を守れる場所にいる。
少なくとも、今は。
まどろむように瞼を閉じた加地に向かいに座っていた父が立ち上がった気配を感じた。
「寝るの?」
「ああ」
そういえばこんなに父と話したのは久し振りだと思いながら、加地の隣りをすり抜け扉に向かう気配を追うとはなしに追った。
チャ、とノブが少しだけ動いた。
「葵」
ゆっくりと麻酔のように回る睡魔のせいでなに、とは答えなかったが、父はそのまま続けた。
「彼女はこれから、敵も味方も増える」
だから、と続け、逡巡するように止まった時間。
睡魔に侵された思考の中で、自分の願いではないことを言われたらと反発心がちり、と掠めた。
「……だから、どんな人間が敵になっても、お前だけは味方でいてやりなさい」
静かに扉が開いて、閉まる。
ふ、と口許に弧を描き、思いの外疲労していた加地は微温湯に浸かるような心地で眠りについた。
耳にはまだ、誇示せずとも何より輝く、真珠の音色。
階段に足をかけたところで、その足が止まる。
知らないうちに、息子が大切なひとを見つけたことがひどく嬉しい。
そして大変な娘を好きになったとも思う。
けれど彼らに関して言えば大変な相手を好きになったのはお互い様だろう。
所属している科だけで、頭から全て否定された、まだ少女と言えるあの彼女。
音楽的成長を目の当たりにしていた金澤の言葉すら撥ね除け、矢継ぎ早に繰り返される敵意にも似た言葉の中でただひとり顔を蒼白にして。
可哀相だけれど、音楽はそういうものだと思った。
彼女も知っているから助けを求めるどころか反論もしなかった。
けれど。
『―――もういい、出よう!』
視線から香穂子を背に庇って、囲む大人たちを半ば睨むようにしたあの息子は知らない。
音楽は孤独だと、知っていても、安心して安心しすぎて泣き出しそうな表情を。
我が息子ながらやり方は拙いとは思う。
けれど、ぎりぎりまで見守れる信頼と、いざというときに庇える想いは何にも代えられない。
学べるものでもない。
やり方なんて、自分が教えていけばいいのだから。
誰に似たかな、と満足げにひとりごちる。
そして寝室で息子を心配していた妻を安心させるため、けれど息子を起こさないよう、ゆっくりと階段を昇った。
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