日野宅で香穂子と柚木家三男と柚木家次女。
香穂子が絶対に選ぶもの。
「もっと言って」
ある日曜日の、柚木家の一室。
柚木家三男の部屋。
男一人。少女が、二人。
「香穂子さん料理上手なのねぇ」
「そんなことないよ?お菓子だけだもん」
「あたしは作れる以前にお祖母さまが嫌がるんだもの、洋菓子」
「じゃあ今度うちにおいでよ。一緒に作ろう?」
「まあ素敵っ」
「………雅」
「はいお兄さま」
屈託ない笑顔で振り向いた妹に、兄・柚木梓馬は困惑を混ぜ込んだ笑顔を向けた。
それにどうフォローして良いかわからず、柚木の恋人・日野香穂子は口を閉ざした。
「雅、香穂子はぼくに会いに来たのだから…」
「あらお兄さま、あたくしも香穂子さんとお話したいもの」
ついと香穂子に擦り寄り、雅は香穂子の腕をその腕に絡ませた。
小さく膨らませた頬が年相応の幼さを見せ、柚木は妹を怒れなくなった。
元より叱責するつもりはないのだけれど。
元来子供が好きで、よく友達とふざけて抱き付いたりすることも好きな香穂子は思わず口許を綻ばせた。
だが香穂子が柚木を見ると、柚木は端正な顔ににっこりと笑顔を浮かべていた。
決して開くことのない唇が何を伝えたいかわかる。
付き合ってるから、というよりは恋人の意図的な二面性を知っているから。
(ごめん、雅ちゃん)
香穂子は心中で精一杯謝りながら空いている手で雅が自分の腕に絡ませている腕に触れた。
「ごめんね、雅ちゃん。梓馬さんと学校でも会えるけど…なかなか落ち着けないから、ね?」
香穂子が申し訳なさそうに言うと、雅は笑顔を向け、少し薄い唇を香穂子の耳元へ持って行き小声で耳打ちした。
「―――――――」
柚木が聞こえない声で言うと立ち上がってくるりと身を翻した。
「クッキーの作り方教えてくださいね、香穂子さん」
そう躾られたのだろう、兄の部屋の障子を開け淵を跨ぐと綺麗に一礼してさらりと閉めた。
それを確認すると今まで手を付けていなかった香穂子のクッキーに手を伸ばした。
「香穂子は雅を振り払えないと思ってたんだがな」
途端がらりと声色が変わったが、香穂子は動じずに微笑を向けた。
用意されていた座布団から立ち上がると柚木の隣りへ座り、その頭を柚木に預けた。
「あたし決めてるんです。どんな時も梓馬さんを選ぼうって」
少し瞳を伏せて香穂子は幼少時のピアノを辞めた、辞めさせられた経緯を話した柚木の痛そうな瞳を思い出した。
「ピアノの話、してくれたじゃないですか。
それからどんな事があっても梓馬さんには、あたしの事だけでは一番にさせてあげたいんです」
香穂子も末子だから、下が持つコンプレックスや劣等感はそれなりに抱えてきた。
だが柚木のそれは香穂子の比ではない。
せめて、自分が一番に柚木を選ぶ。
兄のことを聞いても立派なひとたちだよ、と哀しそうな笑顔を浮かべないように。
雅が立ち去り際に耳打ちしたこと。
「香穂子さんならそう言ってくれると信じていたわ」
笑顔で劣位に甘んじてきた年近の兄に心を痛めてきた雅が試したのは、可愛がって来た妹と恋人を天秤にかけさせた柚木の選択ではない。
大好きな恋人と決して邪険に出来ない自分を天秤にかけた香穂子の選択。
兄か、自分か。
些細なことだけれど、両方なんて選択肢は以ての外。
人間を喜ばせるには『無い』ことが前提だと、柚木は思う。
価値をつけられないものの価値を知ってるのはそれを持ってない人間だから。
今までの人生の全てをかけて知っている。
いつしか手を伸ばすこともやめたもの。
自分の肩に預けている香穂子の髪を撫でながら優しく甘く囁く。
「それだけでこの十八年に釣りが来ると思うんだからおれも甘いな」
「いつの間にあたしのことそんなに好きになりましたか」
「……あんまり五月蠅いと今夜は帰れないと思え」
びくりとスイッチを押したように硬直した香穂子の様子に柚木は声を出して笑った。
少し前までそうすることすら忘れていた幸せ。
渇望していたものと同じように、無知だったものの幸せを与えられるのもまた、幸福でしかない。
自分も、彼女に与えられているのだろうか。
「香穂子。もっと近くにおいで?」
甘く優しい声音に香穂子の瞳が愛しげに揺れる。
身を寄せようとしてふと気付く。
ぴったりと隣りに香穂子から鎮座していた。
「これ以上どう近寄れば良いんですか」
「色々あるだろ?例えばこうとか」
「ぅきゃ…っ」
香穂子がくっついている脚を退かせ香穂子を引き入れた。
倒れ込んだ香穂子を逆の脚で受け止め、香穂子本人が状況を飲み込めない間に柚木が体勢を立て直させた。
香穂子が気付いた頃には後ろから柚木に抱きしめられていた。
「…甘えんぼ」
「そんなに泊まりたいの?」
くすくすと笑いながら香穂子の髪に柚木が顔を埋めた。
「ねぇ香穂子。おれがすき?」
赤い髪の中に柚木の吐息混じりの囁きが籠る。
心地良い暖かさがそのまま愛しさを伝えてくれる。
「梓馬さんがすきですよ」
「もっと言って」
「梓馬さんだけが、すきです」
「違う。もっと」
もっと、と言って繰り返せば否定して更に求める。
怪訝な顔をせず破顔した香穂子だから、答えがわかる。
「梓馬さんだけ愛してます」
言い終わるか終わらないかでこめかみに柔らかい熱を感じた。
ぱ、と見上げると極至近距離に柚木の顔。
緩く香穂子の肩を回し向かい合わせる。
「どうせなら口にしてあげようか?
着替えは雅とサイズ、似たようなものだろう?」
言って鼻先に口接ける。
薄い唇が薄く化粧した唇を掠めるのは、もう一度幸せを紡いだ、後。
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