親衛隊じゃなくて柚木に本気で恋をしたひと。
「柚木く……」
別に、何処かの新興宗教みたいに崇拝してたとか、そんな訳ではない。
だけれど人より綺麗な顔の男のひとが、人より優しくて人より頭も良くて人より境遇にも才能に恵まれて、かつ同じクラスなら気にしない女はいないと、思う。
「柚木、今日も日野ちゃんとお昼?」
クラスのムードメーカーがその人に声をかける。
半歩引いて綺麗な動作で振り返った。
「ああ。今日はお菓子を作ってきてくれたらしくてね」
すぐ近くでその会話を聞いた少女の肩がびくりと震えた。
コンクール参加者だった彼はそれ以前より目に見えて幸せそうに映る。
ひとりの後輩の、女の子のお陰で。
一緒にいるところは見掛けたが、単に人見知りをしない彼女の性格ゆえだと思っていた。
彼の隣りに立つのはもっと、目が覚めるような美人だと、思っていた。
それに彼には結婚相手は家が決めるという実しやかな噂があった。
何となくそれがらしく思えて鵜呑みにしていたから、コンクールが無ければ知り合うことも無かっただろう彼女との付き合いはまさに青天の霹靂だった。
だけれど直接交流があった訳ではない。
聞いたときも、「ああそうか」と妙に納得してそれきり。
濃紫の髪を泳がせ教室を出るその背を見送った。
ひとつ、溜め息が出る。
不意に落とした視線に光るものが目に飛び込んだ。
「ん……」
鈍く光を反射するのは三年間使って傷が多少なり入ったタイピン。
「これ……」
柚木の机の真下なのだから、間違いなく柚木のものだ。
どれだけ丁寧に扱っても留め具が緩んでいるのだろう。
そのまま机に置いておこうとゆっくりと手を下ろす。
だがその手を途中で止めた。
ただの思い付き。
だけれど。
冷えた風が髪を煽る。
タイピンなんか机の上に置いて戻ってから「落ちてたよ」と声をかければ良い。
だけれど衝動的に、手渡したくなった。
だが森の広場まで来て後悔し始めた。
彼女といるのに、自分はただの邪魔ではないか。
そう思うのに足は着実に以前奥へ入って行った方へ向かう。
ふと風に乗って密やかな笑い声が聞こえる。
耳に残るひとつの声は普通科のヴァイオリン奏者の女の子。
彼女は誰と居てもころころと笑っていたような気がする。
すい、と声がした方に首を巡らせる。
「柚木く……」
膝を崩した少女の極近くで上半身を軽く倒し、長い指で赤味がかった髪を退けて露になったそこに口付けを落とす柚木。
普段からは想像出来ない、柚木梓馬。
さ、と風が吹く。
唐突に理解した。
「普段からは想像出来ない」彼が本当の彼で、あの少女は全部受け止めたのだ。
何故気付かなかったのか、自分ですら学校で取り繕うこともあるのに、何故額面通りの彼だと信じていたのだろう。
とびきり美人ではない彼女を選んだのは誰よりも安心出来るから。
だから、想像とは違う彼女でも妙に納得したのだ。
二人とも、幸せそうに笑うから。
もうひとつ、知った。
「……っ」
自分では、駄目だった。
喩え柚木と付き合ったとしても彼女が親衛隊に度々呼び出され受ける中傷を乗り越える度量は自分には無い。
長年続けて居るには様子がおかしかった彼女が学内コンクールをやり遂げ総合優勝を飾ったことに強い意志があったように、付き合うことで誹謗中傷を覚悟しているのだ。
彼や周りからの助けや見返りすら求めない、愛とかが、彼女にはある。
切なさを帯びた焦燥が胸を突く。
握って居たタイピンをポケットにしまう。
音を立てないよう、細心の注意を払って来た道を辿る。
細く長く息を吐き出す。
恋を、していた。
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