柚木と喧嘩した香穂子が出逢ったひと。
「あの子が恋人かしら?」
タイミングがただ悪かっただけ。
大学へ進学した柚木と、一足遅れて附属の音大に進学した香穂子は徐々に擦れ違い、お互い纏まった時間が取れずにいた。
そして少しあれこれ悩んでいるときに柚木と喧嘩しただけ。
いや、喧嘩にすら、ならなかった。
怒っていた自分に柚木が適当にあしらっていただけだ。
それが対等にでない気がして嫌気が差し、ヴァイオリンと適当に入れていた楽譜を掴んで飛び出した。
「よりにもよって「愛の挨拶」……」
家ではご近所の評判を考え弾けないため、公園で楽譜を広げるなり香穂子はその題名を睨み付けた。
だが楽譜に頼らずとも暗譜している曲もそれなりの数がある。
ひとつタイトルを思い出せば付随してその曲にまつわる柚木との想い出も思い出す。
いつもならこの上なく幸せな気分に浸れるのに仲違いしたまま飛び出してきた香穂子にはただ意地に拍車をかけた。
一通り思い出しきるといきつくのは最初に見た「愛の挨拶」を弾いた、コンクールの終わりと恋の始まり。
あれほど好きなのに。
これほど愛してるのに。
こんな、簡単なことで終えてしまうのだろうか。
「あ……っ」
ザッと唐突に突風が吹き込んだ。
小さな石で留めてた楽譜はその風圧に耐えきれず、楽譜が宙を舞った。
「ま……待って!」
思わず伸ばした手は虚空を掻き、足は地面を蹴った。
香穂子から少し離れたところで楽譜は徐々に下降し始めた。
煽られ香穂子が手を延ばしてもまだ高かった楽譜が香穂子の背丈ほどの高さに来た頃、楽譜は持ち主とは違う手がそれを掴んだ。
「あ………」
驚いて立ち止まった香穂子ににこりと微笑むと楽譜を掴んだ女性は踵を返して、そこよりも遠くに飛んだ楽譜を拾った。
見たところでは金澤よりも少しだけ年上な気がする。
「見たところこれで全部のようだけれど…合ってるかしら?」
はい、と差し出す女性に香穂子は警戒を解いて笑顔を浮かべて近付いた。
「有り難う御座います」
手にある一番最初の楽譜のタイトルを指先で撫ぜ、女性は愛しそうに笑顔を浮かべた。
「『愛の挨拶』ね。これを弾くの?」
楽譜と一緒に差し出された手を盗み見ると爪はこまめに切られており指先のタコや磨り減った爪でヴァイオリニストだと知った。
「…喧嘩して、今は弾きたくないんです」
受けとった楽譜をきゅうっと抱きしめながら憮然と言う香穂子に女性は目を見開き、やはり穏やかに微笑んだ。
「恋人と?」
「……はい」
「なら、尚更弾いてみたら良いんじゃないかしら?……聴かせてくれない?」
そう言って優しく微笑んだ。
余りに穏やかで、今は大学院に在学している王崎を思い出した。
だがそれをすぐに打ち消す。
笑顔の雰囲気は似ているが、少し違う。
王崎が全てを包むように微笑むのなら、目の前の女(ひと)は有りのままを受け止めるように微笑む。
その笑顔を絆されるように香穂子はヴァイオリンを構えた。
すっと視線を落として自分でリズムを取る。
思い出すのは正装のまま扉を開け、ほっとしたように安心して微笑んだ、愛しいひと。
最後の音を響かせる。
ゆっくりと瞼をあげれば唯一の聴衆だったその女(ひと)は「ブラボー」と称讃と拍手を
贈った。
「弾…いて、良かったです」
「あたしも良いもの聴かせて貰ったわ。有り難う」
香穂子はゆるゆると首を振った。
どうしてだろう。
今なら何故気遣えなかったのかと自分を叱れる。
突然柚木の前から飛び出して、困らせたいわけじゃなかった。
……謝れば、またあの腕の中へ招き入れてくれるだろうか。
「あの子が恋人かしら?」
「え?」
女性が自分よりも遠いところに視線を投げ掛けているのを認め、香穂子は振り返った。
あの時よりもポジションが近付いた柚木が、香穂子と目が合った瞬間、あの時と同じように微笑んで肩の力を抜いた。
柚木の元へ走ろうとして香穂子は走りかけたが、女性にきちんと向き直った。
「ありがとうございました!」
「こちらこそ…また聴かせて頂戴ね」
それに香穂子は笑顔で応えた。
「あ…っと最後に良いかしら」
二、三歩大きく踏み出した香穂子の背に声がかかった。
振り返ると女性は香穂子の中にずっと遠いところを見つめ少し切なそうに微笑んだ。
「リリは、元気かしら?」
「え………」
「香穂子っ」
確かに自分を見たのになかなか来ない香穂子に痺れを切らし柚木が香穂子の腕を掴んだ。
「ごめんなさいね、長く引き止めるつもりじゃなかったのよ。
……あたしも迎えが来たようだしね」
香穂子たちよりも後ろに手を振ると小さく会釈し、女性は横を擦り抜けた。
「懐かしい思い出に浸れたわ。有り難う」
向かう先には彼女と同じ歳くらいの男性と小さな子ども。
「あ……」
記憶を手繰り、楽譜を渡されたときに一瞬見えた銀の指輪を思い出した。
「……香穂、」
「………っ」
香穂子の頭に触れようとした柚木の手を取り腕ごと抱きしめた。
「ごめんなさい……」
今なら謝れる。
伝えようと柚木を見上げると黄金の瞳が優しく細められ、その揺らめきに見とれていると空いている柚木の手が香穂子の腰を抱き寄せた。
「さ…、寂しかったんです…会いたいのに、会えなくて……。
寂しかっただけなのに、八つ当たりしてごめんなさい……」
ごめんなさい、ともう一度呟き香穂子は腕に力を込めた。
顔を上げた香穂子の額に唇を押しつけたまま柚木は口を開いた。
「謝ってやろうと思ったら「愛の挨拶」聞こえるんだからな。
……全く可愛いやつだよ、お前」
そのまなざしに飛び出す前の煩わしさは見当たらずその体温に身を任せた。
少し肌寒い気温の中、分けあって同じ体温になったころ、ふと柚木は呟いた。
「さっきの女(ひと)知り合いか?」
「リリが良く知ってるひとですよ」
いつまでも、自分たちもああやって寄り添っていたい。
今は望むだけの、銀の指輪が左手に輝くように。
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