柚木ハピバ小説。誕生日に風邪で倒れた柚木。
「……生意気」
「倒れるくらい風邪引くなんて、なにしてるんですか……」
全くだ。
眼前の少女が同じ醜態を晒せば彼女の科白よりも数倍愛という名の皮肉を込め、風邪を引くことにトラウマを作らんばかりに言ってやる。
だが、自分がそうなればむかっ腹が立つ。
そんなものだ。
「五月蠅い。お前はさっさと帰ったら?」
切って捨てると呆れにしては長いため息が聞こえた。
幾分青い顔をしているところから少し緊張の糸が切れたのだろう。
「驚いたんですからね。
火原先輩、携帯だから見えないけど多分血相変えて「柚木が倒れた」って言うんですから」
がた、と丸椅子を引いて柚木が横になっているベッドの側に座った。
「帰れ」と言ったのを聞く気はないらしい。
数日前から、調子は悪かった。
体調不良を自覚したその日に気付いた香穂子には悪いが、家で休みたくなかった。
正確には誕生日だからといつもの倍近くの女子生徒に囲まれていたらふらつき、見咎めた火原が保健室へ引っ張り込んだ。
「あ、あたし、ちょっと行って来ますね」
「家には言うなよ…っ」
立ち上がりかけた香穂子の腕を掴み、思わず言った。
咄嗟掴んだことと熱で加減が出来ず、入り過ぎた力に眉をしかめる事なく香穂子は笑った。
「鞄取ってくるだけです。一度階段昇って戻るの辛いでしょ?」
ゆるゆると解いた手を名残惜しそうに指先で触れて来る。
「何か飲み物買ってきますから待っててください」
ぱたん、と静かに戸を閉め、足音が遠ざかる。
誕生日に風邪、は笑えないが別段誕生日に思い入れがある訳ではない。
ただ、いつも通り苛め甲斐のある恋人と、底抜けに明るい親友がいればそれで良かった。
目の奥が重くなる。
やはり休息が必要なのだと、抗うことなく本能に従った。
泥が絡みついたようにねっとりと四肢と頭が重い。
重い世界で漠然と理解した。
自分の十八年はこんなにも重かったのだと。
そして余り良いものではなかった。
欲しくもないものばかりが周りにある。
不満を感じることすら諦めた心は澱を溜めるしかなかった。
奪われたピアノ。
擦り抜けようとするフルート。
望む進路は同じなのに、分かたれてしまう親友。
それから。
決して多くない筈のものだけが手の中に残らない。
絶望して身を丸めることは矜持が許さない。
(全く……)
面倒で仕方が無い。
好きになれた誰かが、絶対の信頼と無条件の優しさで側にいてくれる幸せに気付いたら、諦観のみで生きることが出来なくなった。
「――――ぃ、の、せ…」
声と共に唐突にちかりと明滅する光。
距離感がわからなくて、近いのか遠いのかわからない。
ふらりと手を伸ばしたのは、すぐ近くにあることを望んだのではなく、じんわりと優しいあたたかさを感じたから。
「柚、…先ぱ……」
知っている。これは、
(香穂子……っ)
掴んで、握る。
香穂子だけは、擦り抜ける前に何度だって掬い上げたい。
握った光は、暖かいのに何故か、握った手からひんやりと十八年の澱を涼やかに洗い流した。
「――――……梓馬さんっ」
視界が突然開けた。ゆっくりと像を結ぶ影は、紛れも無く香穂子だ。
「香…穂子………」
徐々に焦点が合う柚木の瞳に、香穂子は漸く安堵した。
「良かった…戻ってきたら梓馬さん、魘されてるんですもん。
…一人にしてすみませんでした」
香穂子の聞き慣れた声を聞いて、やっと自分の呼吸が乱れていることに気付いた。
それから一拍遅れて、夢で握ったものにも、気付いた。
「………っ」
夢の中、無我夢中で掴んでいたものは、香穂子の手首だった。
強張った緩めて見ると、その白さには鮮やかなほどの朱が細い手首に一巡していた。
「えと、見た目ほど痛くないですよ?」
言うと香穂子はすとんと出る前に引いた丸椅子に座った。
手首を放してずっと浮いたままの手を取り、自らの頬に押し付けた。
「私、先輩が言いたくないことは出来るだけ訊かないって決めてるんです。
…私じゃどうしようもないことが多くて、多分きっと聞いても解決なんて出来ません」
吐息が時折頬に当てられた手に当たり、くすぐったい。
それが、妙に香穂子と自分の距離感の無さを実感させた。
「でも、どうしようもなくても、私だけは絶対に先輩を独りになんてしません」
―――――離れないで。
夢の中で、泣きたくなるほど切実に願ったことを、願ってくれる。
く、と軽く口角を上げた。
和らぐ目許は熱で力が入らないせいにして。
「……生意気」
「褒め言葉と受け取りますね」
笑って、ふと香穂子は膝に乗せていたジュースを思い出した。
「そういえば私、りんごジュース買ったんです。飲みます?」
「そうだな。
疲れる夢を見て喉が渇いた」
だが、と柚木は心中で呟く。
それよりも、欲しいもの。
「ぅわ……っ」
ジュースを持った手を引いて、よろけた香穂子が保健室特有の高いベッドにつんのめる前に空いている片手で香穂子の体を引き上げ、自分の体の上に乗せる。
「柚木せ…、んんっ」
驚いた香穂子が柚木の呼称を呼びきる前に、腕を引いた手を香穂子の項へ回し香穂子の唇にそれを合わせた。
「ふ……ぅん」
驚きに固まっている体は、それでも風邪の柚木の負担を考え出来るだけ体重をかけまいと踏ん張っている。
(律義なやつ)
香穂子の体重くらいなんでも無い。
そろりと離して、離れ切る寸前にその濡れた唇を舐めた。
何か言いたいのか何も言えないのか或いは両方か、空回りするようにぱくぱくと唇を震わせる香穂子の姿が、余りにも予想の範囲内で、笑みが零れた。
このくらい、可愛いものだ。
本当のところで敵わないのは、自分のほうかも知れないのだから。
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