柚木の婚約者の話【2】
「柚木を嫌いになった?」
―――――――ねぇ、柚木先輩。
あたしが、何も知らないと思ってましたか?
傍にいたいと願うだけでは他の女の子と同じなら、どうすれば良いですか?
どうすれば、貴方の隣りに立てますか?
「辛気臭いかおー」
人差し指でふに、と香穂子の頬を突きながら、天羽は包み隠さない率直な感想を漏らした。
これが冬海なら、おずおずと体調を聞いてくる。
無視を決めた香穂子に、天羽は少しむっとした。
「あたし、あんたはもっと度胸あると思ってたよ」
突いたまま、ふにふにと押し続ける天羽のささやかな攻撃を受けながら香穂子は言葉に窮した。
「だ、だって……」
「コンクールのときも、柚木さんの取り巻きの嫌がらせのときも、あんた、今みたいな辛気臭い顔してなかった」
「し、辛気臭いばっかり言わないでよ……」
「じゃーその泣きそうな顔やめてよ」
「………少しだけ、言って良い?」
少し、体を堅く強張らせた香穂子の緊張を解くようににかっと笑う。
「安心してよ、記事にはしないから」
天羽の軽口を叩く思いやりは成功して、久し振りにコンクール期間中の取材のためにくっついていた香穂子が良く見せた、困ったような笑顔を見せた。
「柚木先輩は、さ。周りから見て完璧な人じゃない?」
性格から環境から才能から、果ては美貌と言って良いほどの外見。
コンクールの期間中…要は香穂子が片想いしてた時は、羨ましくて、憧れで、そういう所もただ好きだった。
だけれど付き合うようになると、羨望も憧憬も恋情すらもプレッシャーにしかならない。
一人でそれを溜め込むうち、自信喪失にまでなった。
ぐるぐると考えているうちに、あの噂が耳に入った。
車へ押し込んだ行動から、きっと本当なのだ。
連絡が無いまま休みが過ぎて、現実を…婚約者がいるから、と別れを突きつけられると思うと堪らず、逃げるように避けた。
そしてとうとう、恋にすら自信が無くなった。
付き合いは戯れ。
囁きは揶揄い。
温もりはまやかし。
想いは幻想。
まるで手の届かない人に手が届いて、立ち込めたとても濃い霧の中で手を話してしまったような。
もう、涙すら出なかった。
話す香穂子の前で、閃光のようなものが一瞬瞬いた。
驚いて顔を上げるとカメラを持って悪戯っぽく笑う天羽。
「ちょ…………今の撮ったのっ?!」
「毎度ありっ」
信じられない、と香穂子は体の動きは停止させた。
天羽は勝気な印象のある瞳を緩く細めて笑った。
「ま、あんたが悩んで出した答えならそれが正しいんじゃない?」
丁度チャイムが鳴り響き、ひらひらと手を振って天羽は教室を出た。
見送ると、何だか気疲れして、机に突っ伏した。
「柚木先輩………」
誰にも聞こえない大きさで発した名前は、誰にも知られないまま、香穂子の旨の奥を小さく甘く痛めた。
だけれど、まだ恋か憧れかは、分からなかった。
柚木梓馬は、もうこのまま家に帰ってしまいたかった。
婚約者が、「梓馬さまの生活する学校を見てみたい」と付き人に進言した事が、今の状態の原因。
学校の制服でない、要は私服を着てとなりを歩く、二つ下の少女が俯きがちにしている話に適当に相槌を打ちながら、過ぎる時間の遅さを呪った。
「素敵な校舎ですのね。レトロな雰囲気で…。浮世離れした梓馬さまにとても良くお似合いですわ」
「そうかい?ありがとう」
彼女の発する雰囲気から、いつも周りを固めている少女らはいない。
(家が決めた婚約者の何が………)
毒吐く柚木の心情を図る術を持たない少女は、楽しげに話を続けた。
「あら、制服、二種類あるんですの?」
「ああ、この学校は音楽科と普通科に分かれていてね。僕は音楽科なんだ」
「確か、梓馬さまはフルートでしたわね。今度聴かせて下さい」
うっとりと瞳を甘く細めて言う少女に、建前だけで笑みを返した。
歩き出す為、正面を向いた時、柚木の視界の真ん中に濃色の制服が目に入った。
一週間前までは、笑顔でいた香穂子。
「っ………」
香穂子、と、そう呼ぶ前に香穂子は苦しげに眉を寄せると、香穂子は身を翻した。
待て、と出かけた声は制服を引っ張る感覚に押さえ込まれた。
「梓馬さま?」
傍目にも、ただの顔見知りではない事を察した彼女は、香穂子が走って行った方を見ながら問うた。
「誰ですの?」
「……後輩、だよ」
そうやって絞り出すのがやっとだった。
気付かれないよう、彼女がいる方とは逆の手を力任せに握り締めた。
そうしなければ、衝動で追いかけそうになっていた。
香穂子は、ただひたすら走った。
何か化け物に追いかけられているかのように走った。
息苦しさを感じる暇すら無いほど、走った。
「っ、は……ぁ、はぁっ」
昼休みの終わりに感じた痛みを確かめたくて、恋と実感したくて、話そうと思った。
噂の審議。
柚木の心の在り処。
香穂子の想いの行方。
香穂子が受ける、耐え切れなくなった軋轢。
何より、柚木の想い。
「ふ、はぁ……はっ、ふ……っ」
知れたのは、容赦の無い現実。
聞きたかった。
本心じゃなくても、香穂子しか見えないと、聞きたかった。
否、もしかしたら本心だけを聞きたかったのかも知れない。
……今となっては、もうわからないけれども。
「ふ、くぅ……は」
逢いに行くと、柚木はとなりを歩く、生徒ではない女の子に笑いかけながら歩いていた。
何となく、わかった。
あの娘が、柚木先輩との将来を約束した女の子なんだ。
あたしが、あたし以外の全てを投げ出しても手に入れられないものを持っている。
昼休みの終わりに感じた痛みが比にならないくらい、胸の奥が痛くなった。
「んっ、ふ…ぁ……」
漸く気付けた。
本当に、すきなのだ。
外面ばかり良くて、本当はとても横柄で、だけれど本当に優しい、柚木先輩が。
だけれど、もう言えない。
柚木先輩の、輝かしい人生は邪魔出来ない。
きっと、彼の人生の中で、擦れ違いざまにぶつかっただけのような、ただの通行人なのだ。
いつか、思い出しすらしなくなる。
頬が冷たい。
そういえば景色が歪んで見えるから、泣いているのかも知れない。
「日野ちゃんっ」
ふんっと腕を掴まれたかと思うと、足が浮いた。
と、言うより階段が香穂子の目の前でがっぽりと口を開けるように待ち構えていた。
「危な……!前見なきゃ落ちるよっ」
少し怒ったように言う、腕を掴んだ人物。
「ひっ、原…先輩……」
火原は香穂子が泣いているのを見ると、辺りを見回して、落ち着かせるように頭を撫でた。
「う……っふぁあんっ」
火原の掌の温かさに微かに沸いた安心感は瞬く間に広がり、堰をきったように泣き出し、顔を覆った香穂子より少し低い目線まで膝を折った。
「練習室行こう?歩ける?」
「……は、いっ…」
「落ち着いた?」
「はい……。すみません…」
「いやだな、おれ先輩だよ?気にしないで」
練習室に着くやいなや、火原は飛び出すように出て行ったかと想うと、缶のスポーツ飲料二つ片手に戻ってきた。
「話すにしても、落ち着くだけにしても、飲み物欲しいでしょ?」
ちゃぽ、と缶を一つ揺らして、一つ脇を抱えて缶を開け、香穂子に渡した。
時折それを飲んでは、思い出したかのように声を押し殺して乾きかけた瞳を濡らす香穂子に何も言わず、辛抱強く待った。
漸く落ち着いた、香穂子の第一声の謝罪を笑顔で返した。
からからと火原が開けた窓からは風が舞い込み、泣いて熱を持った香穂子の頬と頭を冷やした。
「………火原先輩は知っていますよね。柚木先輩の…」
「………うん」
申し訳なさそうに香穂子かr脚線をはずす火原は、俯いている香穂子には見えなかった。
「本当は…言いたかったんです。お見合いなんてしないで下さいって」
ゆっくりと、時々しゃくりあげながら香穂子は話した。
「だけれど、柚木先輩は、あたしに知られたくなったみたいで」
いつもはヴァイオリンやフルート、クラリネット等、様々な音を吸収する防音設備の整った壁は今は香穂子の声だけを呑み込んでいった。
「だから、知らない振りしようとしたんです。都合良くても、嫌な話なら聞きたくなくって」
天羽は、コンクール中も、嫌がらせのときも弱音を吐かなかったと言った。
本当は、言えなかっただけ。
幻滅されるのが、ただ怖かった。
「コンクールみたいに、一人で抱え込もうとして、この様なんです」
馬鹿みたいですね、と自嘲的に笑う香穂子を火原は痛ましげに見た。
泣かなければ、誰かに聞いて貰わなければ、耐え切れないまでになってしまった。
「………さっき、見たんだよね?」
火原は、放課後鞄どころかフルートを仕舞っているケースすら持たずに教室を出る柚木を訝ってどうしたのかと聞くと、土曜日に会った婚約者が此処に来るんだと聞いた。
香穂子は火原の質問に素直に頷いた。
「それで、耐え切れなくなったんだよね?」
もう一度、頷いた。
「…じゃあ、日野ちゃんとの事周りに言わないで、お見合いした柚木を嫌いになった?」
「………っ!」
香穂子はそこで練習室に来て初めて、火原の顔を見た。
気持ちと口が追いつかない。
「………なりません……っ」
再び浮かんだ涙が、ふるふると振った首に合わせて散った。
「嫌いにならないと辛くても、好きでなくなる方が辛いです……」
元より未来まで見通して付き合っていた訳ではない。
隣にいたかった。
見ているだけでは想いが大きすぎて苦しくなった。
香穂子にしか見せない顔の中に、笑顔は確かにあった。
年相応の、だけれど少し小さな悪戯っ子に似た。
恋か憧れか分からない?
そんなこと、無い。
「柚木先輩が、すきです……」
まるで初めて想いを告白したような科白。
聞くなり、火原は残ったスポーツ飲料を飲み干すと、立ち上がってブレザーのポケットを弄った。
「聞こえた?柚木」
取り出した、開きっぱなしの携帯に向かって行った。
「火……原先輩……?」
戸惑う香穂子ににっこりと笑って練習室の部屋番号を言うと、ぱしんと音を立てて畳み、再び携帯をポケットに突っ込んだ。
「ごめんね、日野ちゃん。携帯、ずっと柚木に繋がってたんだ」
「は………」
コレ買いに行った時に電話したんだ、と説明する火原の声は呆気に取られる香穂子の耳を上滑りした。
「直に来るよ、柚木」
言い終わらないうちにがちゃりとドアノブが回って、扉が開いた。
「柚木先輩………っ」
開いた扉の向こうには息を切らしたまま、狭い練習室をぐるりと見ないうちに見つけた香穂子を視線で捉えた。
上がった息を整えないまま、柚木は火原と向かい合う。
「すまない、火原……」
「良いって、オケ部も無かったし。…まあ流石におれも吃驚したけど」
じゃあね、と告げて、火原は練習室を後にした。
「な、んで……」
状況が今一つ呑み込めない香穂子の前に、柚木は膝を付いて香穂子の手を握った。
「あのあと、直ぐに言ったんだよ。彼女に……」
音楽科校舎で、香穂子が走り去ってから、そのまま追いかけたいのを堪えて、婚約者に告げた。
「今の彼女が、心に決めている女(ひと)だから」
それは初めて、柚木が家に関わる事で見せた反抗。
当然彼女は怒り、だが女のプライドとして「振られた」等と家に言える訳はない。
きっと、家に帰れば自分が振られた事になっている。
祖母に、今現在香穂子の存在が知られなければ、それで良い。
少女が見えなくなった頃、普段余り学校で出さない携帯を開いて、コンクール参加者で且つ友人であり、生徒内、香穂子以外で唯一携帯の番号を知る火原の名前を探す。
きっと、火原に初めてする頼みごと。
頼みの綱の彼は、数コールで機械越しに声を聞かせた。
「ごめん、火原…。日野さんを探して欲しい」
それに気持ちよく一つ返事で返し、次に携帯が受けた連絡形態はメール。
香穂子は、泣いていた、と。
文字を打つのが煩わしくなって、火原の携帯に電話した時には、香穂子を落ち着かせる為にジュースを買いに行く途中だと言った。
少し逡巡した火原が持ち出した計画は、携帯を繋ぎっぱなしにして、香穂子の気持ちを聞けばいい、というもの。
躊躇いはあったが、きっと香穂子は柚木を前にすると、柚木が気にしないよう、『最善』の答えしか言わない。
柚木は、香穂子のそういった性格を認識していた。
電話越しに、くぐもった香穂子の声を聞きながら、後悔した。
そして後悔を越えるほど想った。
香穂子が、すきだと。
不器用だ、と皮肉げに思って、不器用さに泣きたくなったところで火原の声が聞こえて、部屋番号を告げられた。
気が付けば走り出すほど、香穂子の涙を止めたかった。
笑顔が、見たくなった。
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