眠り姫加地(笑)
苗字よりも名前で呼んで。
「加地くんだからサボりそうだよ」
昼ご飯を食べ終え、お茶に口をつけながら譜読みをしていた香穂子に、長身の影が近付いた。
「日野、それ次のやつか?」
聞き慣れた声に笑顔を向けながら香穂子は首を上げた。
「土浦くん。んーまだちゃんと決めてないんだけどね?話し合わなきゃいけないし」
ぱさりと乾いた音を立て机に楽譜を置いた。
「土浦くんどうしたの?」
「ああ、加地の奴は何処だ?」
「加地くん…?」
隣りは空席だった。
そういえばと記憶を辿ると、昼休みになったと同時に何処かへ行ってしまった。
「探して来るよ。もうすぐ授業始まるし」
教室の黒板の真上にある時計は五限開始十分前を指していた。
「ガキじゃないんだから戻ってくるだろ」
「加地くんだからサボりそうだよ」
呆れたように言う香穂子に一拍置いて土浦は笑った。
「違いないな」
立ち入り禁止になっている普通科棟の屋上。
余り人気の無い、奥の廊下にあるのだからあまり心配はないが、念のために周囲を確認してそろりと階段を昇り、扉を開けた。
ぐるりと首を巡らせると予想通りの人影。
「加地くんっ」
加地は片足を膝を立てた逆の足の上に乗せ、頭の後ろで手を組んで寝転がっている。
「もうすぐ授業始まるよ?」
「そうだね」
肯定しながらも動く気配の無い加地を訝って、加地の近くまで歩み寄った。
「残念だけれど、今のぼくは眠り姫だから」
「……はぁ?」
意図が読めない加地に、香穂子は思い切り疑問符を飛ばした。
会話はしているが、さっきからずっと瞼は閉じられている。
だが起きて貰わねば遅刻してしまう。
加地を置いて授業に行くことは選択肢に含まれてはいるが、サボらせることは出来ないのだから、このままでは図らずも一蓮托生だ。
加地が言った眠り姫は小さい頃見た。
黒い二足歩行をする鼠の生みの親である会社のアニメで、確か。
「えっか、加地くんっ」
途端狼狽し始めた香穂子の声に加地は口許に喜色を滲ませた。
「ふふ、からかってごめんね。じゃあ、名前で呼んで、起こして」
「も、ふざけないで…」
「志水くんは起こしたのに?」
いつもどおりに真っ直ぐ香穂子をその瞳が捉えていたなら、きっと悪戯っぽく煌めいた瞳はここに来てからずっと開いていない。
加地が言う志水云々は数日前の話だろう。
屋上で眠っていた志水を起こして、彼らの悪戯を止めて、ヴァイオリンで起きたかと思えばまた寝てしまった。
最初起こした時、肩を揺すりながら耳元で呼んだ。
確かに、呼んだ。
自分に対する加地の好意は知っているが、それは音楽の話。
なのに、そんなものは。
(すき、みたいじゃない……)
まるで妬きもちを妬かれた気分だ。
ふるりと首を振って、腕時計に目を落とすと授業開始三分前。
教師が教室に着く時間を考えたらもうぎりぎりだ。
すっと加地の近くに座って耳元に顔を近付けた。
「葵、くん。もうほんとに授業…きゃ…っ」
突然腕を引かれ傾いだ体はすぐに受け止められた。
腕を引かれたことも、倒れ込んだのが加地の腕の中であることも認識しないまま、耳の近くで鳴った音に思考を奪われた。
ちゅ、と頬に触れたのは何?
「………っ、か、じくっ」
口をぱくぱくさせる香穂子に気付かない振りをして、加地は身軽に起き上がった。
「行こうか。また迎えに来て欲しいな」
「こ、来ない!加地くんなんか知らないっ」
顔を真っ赤にして常より軽い足取りの加地の後ろを香穂子が追いかけた。
「ごめんね。さ、どうぞ」
開けた扉を自分の体で支え香穂子を促した。
香穂子が加地の前を擦り抜けた時に少しだけ身をかがめた。
「二人のときはまた葵って呼んで欲しいな」
「………っ」
香穂子が加地を怒ろうとしたのと、五限開始のチャイムが鳴ったのは同時だった。
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